尾藤 頼景(びとう よりかげ)は、鎌倉時代中期の武士。北条氏得宗家被官である御内人。
諱(名前)について、『尊卑分脈』の尾藤氏系図では景頼(かげより、通称:左兵衛)とする[3]が、「頼」が鎌倉幕府第5代執権・北条時頼の偏諱と考えられるために、他の系図[2]に掲載の「頼景」であった可能性が高いとされる[5]。
実際に時頼の代には、『吾妻鏡』建長2年(1250年)正月一日条「尾藤兵衛尉」[1]、同4年(1252年)正月一日条「尾藤二郎」、康元元年(1256年)正月三日条「尾藤次郎兵衛尉」として垸飯引出物の馬引役を務めた人物が確認され、通称名から頼景であるとされる[5][6][7]。これ以外に頼景の活動は史料上で確認できず、父・景氏や息子・時綱(演心)に比べると目立った活動は無かったようである。
脚注
- ^ a b 『吾妻鏡』建長2年元日の「尾藤兵衛尉」を史料上における初出とする場合、時頼が得宗家当主および執権となった寛元4年(1246年)から、前年の建長元年(1249年)の間に元服しているはずであり、元服はおおよそ10代前半もしくはこの前後で行われることが多かったことから、生誕年は1230年代~1240年代初頭の間であったと推定できる。
- ^ a b 『続群書類従』「系図部」所収『秀郷流系図』「尾藤」(細川、2000年、P.429にも掲載)。
- ^ a b 『尊卑分脈』「尾藤」。細川、2000年、P.428にも掲載。
- ^ 『尊卑分脈』の尾藤系図では時景(のち改め時綱)とするが、『続群書類従』の系図では頼景の子が時綱、孫が時景としており、後者が正しいとされている(細川、2000年、P.214 注(29))。
- ^ a b 細川、2000年、P.214 注(24)。
- ^ 井上、1990年、P.30~32。
- ^ 前者2つについては『吾妻鏡人名索引』でも頼景とする。
参考文献
- 井上恵美子「北条得宗家の御内人について―尾藤氏の場合―」『白山史学』26号、1990年 所収
- 細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)ISBN 4-642-02786-6
- 御家人制研究会 編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)