尾上 桃華(おのえ とうか、1898年4月3日 - 1953年9月26日[1])は、日本の俳優である[2][3][4]。本名は石田 常吉(いしだ つねきち)[2][3]。日活大将軍撮影所、新東宝等で、尾上華丈と共に長く活躍した名脇役の一人である。身長は5尺1寸(約154.5センチメートル)、体重は13貫200匁(約49.5キログラム)、後に13貫300匁(約49.9キログラム)となる[3]。
来歴・人物
1898年(明治31年)4月3日、大阪府大阪市に生まれる[2][3][4]。1956年(昭和31年)3月に発行された『キネマ旬報』によれば、生年月日は上記の通りだが、出生地は兵庫県姫路市である旨が記されている[1]。正確な年月日は不明だが、地元大阪の俳優である市川團若の弟子となり、各劇団を巡業するが、間も無く團若は死去[2][3][4]。
1925年(大正14年)、尾上松之助(1875年 - 1926年)の門弟となり、日活大将軍撮影所に入社、とされている[2][4]。1929年に発行された『日本映画俳優名鑑 昭和五年版』(映画世界社)によれば、日活京都撮影所に入社としており、日本映画データベースにおいても、桃華が出演している最古の作品は同年1月5日に公開された同所製作の池田富保監督映画『白藤権八郎 前篇 鍛錬の巻』である[3]。以後、戦時中までどんな役でも器用にこなす貴重な脇役として、松之助主演映画を始め非常に多くの作品に出演した[2][3][4]。また、同社に在籍していた尾上華丈(1898年 - 1969年)等と共に「池田富保一家」とも呼ばれ、池田は怒りやすい性格だったため、撮影中によくしかられていたという[2]。
1979年(昭和54年)に発行された『日本映画俳優全集 男優篇』(キネマ旬報社)や、1998年(平成10年)に発行された『芸能人物事典 明治大正昭和』(日外アソシエーツ)は、終戦後の来歴は述べられておらず、没年不詳とする[2][5]が、実際には、1949年(昭和24年)頃から新東宝で映画界に復帰しており、日本映画データベースにおいても出演作品が確認できる[4]。ところが、1951年(昭和26年)に公開された並木鏡太郎監督映画『唐手三四郎』に出演して以降の出演作品が見当たらないが、映画評論家の岸松雄(1906年 - 1985年)によれば、桃華は黒澤明監督映画『七人の侍』に出演予定であったが、出演は叶わず、1953年(昭和28年)9月26日に急逝したという旨の記述がなされている[1][4]。満55歳没。
脚注
- ^ a b c 『キネマ旬報』1956年3月号、キネマ旬報社、70-71頁。
- ^ a b c d e f g h 『日本映画俳優全集 男優篇』キネマ旬報社、1979年、131頁。
- ^ a b c d e f g 『日本映画俳優名鑑 昭和五年版』映画世界社、1929年、42頁。
- ^ a b c d e f g 『日本映画興亡史2 日活時代劇』ワイズ出版、2002年、58頁。
- ^ 『芸能人物事典 明治大正昭和』日外アソシエーツ、1998年、128頁。
外部リンク