尼子 富士郎(あまこ ふじろう、1893年12月1日 - 1972年3月17日)は日本の医師、老年医学者。医学博士。
略歴
広島出身の医師で医学中央雑誌の創設者でもある尼子四郎の長男として山口県下松市で生まれ、まもなく一家で上京する[1]。誠之小学校では中川一政と同級生であり、また東京高等師範学校附属中学校の受験のため夏目漱石に英語の個人教授を受けていた[3]。
- 1906年 - 東京高等師範学校附属中学校に入学
- 1911年 - 第二高等学校三部医科に入学
- 1914年 - 東京帝国大学医学部に入学
- 1918年 - 東京帝国大学医学部を卒業し、内科(稲田龍吉)に入局[1]
- 1926年 - 新設された浴風会本園の医長に就任
- 1927年 - 医学博士
- 1928年 - 東京帝国大学医学部嘱託講師(1953年まで)、医学中央雑誌代表
- 1959年 - 浴風会病院院長
- 1968年 - 浴風会病院を退職、名誉院長[2]
業績
世界に先駆けて老年医学の重要性に着目し、その研究と教育の先駆者と評価されている。日本老年医学会は「尼子賞」を設けている[4]。
その一方、父から医学中央雑誌の編集を引き継ぎ、全ての文献の採択、抄録の編集、校正に目を通し、それを優先するため生涯国外に出なかった。現在の「医中誌」の社屋は富士郎の自宅跡に建てられている[3][5]。
人物
誠実で控えめな人柄。戦時中に浴風園が陸軍に占拠され、また応召のため医師がほとんどいない状態で献身的な貢献を続けた[6]。囲碁、観劇を趣味とし、ゴルフ、乗馬を嗜んだ[1]。
受賞
著書
論文
参考文献
外部リンク