小山昭晴

小山 昭晴
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都町田市
生年月日 1960年12月14日
没年月日 (2005-11-14) 2005年11月14日(44歳没)
身長
体重
182 cm
90 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1978年 ドラフト3位
初出場 1985年10月8日
最終出場 1990年4月12日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

小山 昭晴(こやま あきはる、1960年12月14日 - 2005年[1]11月14日)は、東京都町田市[2]出身のプロ野球選手。1981年に昭治から昭晴に改名した。

来歴・人物

日大高では2年次の1977年に秋季関東大会県予選で準決勝へ進むが、武相高に惜敗。

1978年のドラフト3位で横浜大洋ホエールズに入団[2]。遠投120mの強肩で期待されたが、当時の大洋は福嶋久晃辻恭彦など捕手層が厚く、なかなか出場機会に恵まれなかった。

1985年10月に一軍初出場、初安打を放ち先発出場も経験する。

1987年オフに石川賢との2対1の交換トレードで堀井幹夫と共にロッテオリオンズへ移籍[2]。登録名を小山 昭吉(あきよし)に変更し、同年は袴田英利の控えながら6試合に先発マスクを被る。10月19日の対近鉄ダブルヘッダー第1試合では途中から出場すると9回表に鈴木貴久の安打で勝ち越し点を狙い、三塁を回った二塁走者の佐藤純一を挟殺プレーでタッチアウトにしている。

1989年オフに自由契約となる。

1990年から大洋に復帰する[2]が、谷繁元信の教育係的存在で一軍出場は2試合に終わる。

1992年引退[2]

引退後も後身の横浜に残り、育成バッテリーコーチコーチ補佐(1993年 - 1995年)→一軍バッテリーコーチ(1996年 - 1997年)→二軍バッテリーコーチ(1998年 - 1999年)→二軍バッテリーコーチ補佐(2000年)を歴任し、育成部時代は相川亮二を指導[3]

退団後の2001年には相模原ホワイトイーグルス中学部監督に就任し、2002年には神奈川県大会優勝に導いた。

2005年11月14日、白血病で死去。享年45。母校の日大高では現在、小山の横浜コーチ時代のユニホームが展示されている。

エピソード

  • ニックネームはドラえもん。人懐こい笑顔で同僚やファンに親しまれた。
  • 登録名を昭治、昭吉と2度変えている。
  • 日航機モスクワ墜落事故で犠牲となった神奈川県教育長主事・小山昭三の遺児。
  • 大洋(2度目)在籍時に娘を病気で亡くしている。
  • 2007年に横浜コーチ時代の同僚だった大矢明彦が横浜の監督に復帰した際、背番号は親友だった小山を偲んで、小山が横浜コーチ時代に背負っていた85番を着用した。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1985 大洋 6 10 9 2 2 2 0 0 4 1 0 0 0 0 1 0 0 3 0 .222 .300 .444 .744
1986 11 12 12 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 8 1 .000 .000 .000 .000
1987 6 4 3 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 2 0 .000 .250 .000 .250
1988 ロッテ 39 28 26 1 4 0 0 1 7 3 0 0 2 0 0 0 0 9 0 .154 .154 .269 .423
1990 大洋 2 2 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 2 0 .000 .000 .000 .000
通算:5年 64 56 52 3 6 2 0 1 11 4 0 0 2 0 2 0 0 24 1 .115 .148 .212 .360

年度別守備成績

年度 試合数 企図数 許盗塁 盗塁刺 阻止率
1985 5 4 2 .333
1986 6 1 0 .000
1987 4 1 0 .000
1988 39 9 6 .400
1990 2 0 0 -
通算 56 15 8 .348

記録

背番号

  • 36 (1979年 - 1987年)
  • 37 (1988年 - 1989年)
  • 63 (1990年 - 1992年)
  • 85 (1993年 - 2000年)

登録名

  • 小山 昭治 (こやま あきはる、1979年 - 1980年)
  • 小山 昭晴 (こやま あきはる、1981年 - 1987年)
  • 小山 昭吉 (こやま あきよし、1988年 - 2000年)

脚注

関連項目

外部リンク