宮越 馨(みやこし かおる、1941年〈昭和16年〉9月14日[1] ‐ )は、日本の政治家。上越市議会議員(2期)。元新潟県議会議員(1期)、元上越市長(2期)、元官僚(大蔵省主計局主査など歴任)。
人物
新潟県旧高田市出身。新潟県立高田高等学校、中央大学商学部卒業。
大蔵省を退官後、渡辺美智雄の秘書を8年務めながら、衆院選に3度出馬[2] したものの、いずれも落選した。宮越が出馬した旧新潟県第4区は、定数2を自民党の高鳥修と当時同じく自民党だった白川勝彦、さらに社会党(当時)の筒井信隆の3人が激しく争っており[3]、宮越はこの3度の選挙全てで4位と破れた[4]。
3度目の落選直後の1993年11月より出身地の上越市長に就任、副市長制導入や情報公開条例の制定などの改革を実行した。しかしその反面、積極的な開発政策を実施した結果として市債残高を増大させ、市財政を上越市成立以来最悪の危機に陥れたことや、リーダーシップに対する反発なども見られた[5]。さらに、2期目にセクハラ問題で告訴されたこと(後に取り下げ)や、ゴミ処理施設の解体工事を巡り訴訟合戦[6] になるなど、反宮越の機運も高まった。
その結果、3期目を目指した2001年10月28日投票の市長選において、自民党の一部が木浦正幸県議を対抗馬として擁立[7] し、宮越は現職であるにもかかわらず2万票余りの大差で落選となった[8]。
その後、2003年4月の新潟県議選に当選したものの、翌年10月の新潟県知事選には4位落選、さらに全国最多となる1市13町村の合併後に行なわれた2005年10月30日投票の上越市長選で再度、木浦に大差で破れた[9]。
2007年4月の新潟県議選・上越市選挙区に宮越が再度出馬するとの憶測もあったが、出馬を見送った。宮越は2005年の衆院選への出馬に意欲を示していたが、自民党の公認を得られなかった(自民党は前回に続き、新人で高鳥修の息子・修一を公認)うえ後援会の反対(市長選への出馬論が大勢だったという)もあり、出馬を断念している[10]。
2009年、2度上越市長選を戦った木浦正幸市長が同年10月25日投開票の上越市長選挙への不出馬、引退の意向を明らかにし、村山秀幸副市長を後継者に指名。一方宮越は同年5月27日、市長選再出馬を表明した[11]。更に大島精次・上越タイムス社代表取締役会長兼上越ケーブルビジョン社長の女婿大島誠・上越タイムス社社長も名乗りを上げ、保守系3候補による選挙戦となった。3陣営とも第45回衆議院議員総選挙の結果国政与党となった民主党に支援要請したものの、民主党は自主投票を決め、同じく与党となった社民党も自主投票となった。自民党は既に3陣営それぞれに党員・支持者が分かれていたことからこちらも自主投票となった。投票の結果、村山が他2候補に2万票以上の大差をつけて当選、宮越は村山の半分の得票にも遠く及ばず最下位で落選した[12]。
2010年、かつて秘書として仕えた渡辺美智雄の息子渡辺喜美が党首を務めるみんなの党に参加。同年2月、みんなの党農都共生支部(新潟県支部)を設立し支部代表となる。同年4月、みんなの党公認候補として第22回参議院議員通常選挙に立候補することが内定し、党参議院比例信越支部長に就任。みんなの党の比例代表候補となることが発表された。17年ぶりの国政選挙立候補となったが、結果は個人票が20,319票と低迷し落選に終わった[13]。政界引退との報も流れたが、自ら記者会見しこれを否定。引き続き党支部代表の職に留まり、政治活動を継続すると表明。次期統一地方選挙や衆議院議員選挙に際し新潟県内にみんなの党公認候補者を擁立する方針を示したが、同党は2014年11月に解散した。
2015年11月3日発令の「平成27年秋の叙勲」で、旭日双光章を受章した[14]。
2020年4月19日、上越市議会議員選挙に無所属で立候補[15]。同月26日の投開票の結果、第1位で初当選した[16][17]。
2021年10月31日投開票の上越市長選挙への立候補が取り沙汰されていたが、上越市長選への出馬を断念し、市長選への出馬を表明している元市議の中川幹太の支援に回ることが報じられた[18][19]。
2024年4月14日告示、21日投票の上越市議会議員選挙に立候補[20]、2位で2回目の当選を果たした[21]。
著書
- 『未完「地方からの国づくり」』北越出版、2016年4月[22]。
- 『自然・生産・生活の快適調和をめざして — グリーンアメニティ構想 アーバンビレッジ21』新潟日報事業社出版部、1990年1月。
関連項目
- 平山征夫(宮越が上越市長に在職していた当時の新潟県知事。上越市長時代から対立関係にあり、2001年の市長選において木浦を支援した。その後、県議になった宮越は無所属議員として平山を激しく攻撃した。)
- 副市長制(1999年7月に部制を廃止して定員6名の副市長を設置したが、木浦市長が2002年3月31日限りで副市長を廃止して助役と部制を復活させた。なお、2007年の地方自治法改正に伴い木浦も副市長制を復活させている。)
脚注
- ^ 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、170頁。
- ^ 1986年7月と1990年2月の総選挙は無所属で、1993年7月の総選挙は新生党から出馬。
- ^ 1986年の総選挙では高鳥と白川、1990年の総選挙では筒井と高鳥、1993年の総選挙では白川と高鳥という得票順で当選した。定数が1減となった1986年以降の3度全てに当選している高鳥も首位は1回だけと安定しているわけではなく、1993年の総選挙では次点の筒井との差は僅か138票だった。
- ^ ただし、得票数を1986年・30,906票→1990年・47,388票→1993年・51,731票と伸ばした(1993年総選挙では、2位の高鳥との差は7,471票)。
- ^ 2005年10月27日付『讀賣新聞』より
- ^ 南クリーンセンター裁判の概要:自民党・小林林一新潟県議(上越市選出)の HP より
- ^ 2001年11月~12月の『新潟日報』連載企画より
- ^ 木浦の得票数 51,301票、宮越の得票数 28,612(得票率約35.8%)。
- ^ 木浦の得票数 81,402票、宮越の得票数 30,110票(得票率約27.0%)。立候補はこの両名のみ。
- ^ 2005年8月22日付『朝日新聞』より
- ^ 『新潟日報』2009年5月28日付
- ^ 村山の得票数 53,071票 大島の得票数 30,400票 宮越の得票数 24,020票
- ^ 『国政選挙総覧』580頁。
- ^ 内閣府 平成27年秋の叙勲受章者名簿 小綬章以下(都道府県別)新潟県
- ^ 上越市議選立候補者(届け出順・定数32-36) 2020年4月19日 新潟日報
- ^ 【2020上越市議選速報】32人決まる 元市長の宮越さんトップ当選 女性7人全員当選 2020年4月26日 上越タウンジャーナル 株式会社デジコロ
- ^ 上越市議選 当選32人決まる 投票率過去最低の47.65% 2020年4月26日 新潟日報
- ^ 新潟県上越市の村山市長が市長選不出馬の意向固める2021年2月24日 にいがた経済新聞
- ^ “宮越氏が不出馬を表明”. 2021年10月9日閲覧。[リンク切れ]
- ^ 2024上越市議選告示 7人超過の39人が立候補‐上越タウンジャーナル 2024年4月14日2024年4月14日閲覧。
- ^ 上越市議会議員選挙‐|2024年04月21日投票|新潟県上越市|選挙ドットコム
- ^ 2016年4月5日付け「上越タイムス」2面より
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1971年4月29日合併 |
高田市長 |
官選 |
- 倉石源造1912.1.6-1921.5.13
- 河島良温1921.8.6-1924.10.7
- 川合直次1924.10.29-1936.2.2
- 江坂徳蔵1936.7.4-1938.8.27
- 中川潤治1938.10.6-1945.3.4
- 川上大造1945.5.30-1946.11.20
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公選 |
- 関威雄1947.4.5-1955.1.20
- 川澄農治1955.3.15-1963.3.14
- 小山元一1963.4.30-1971.4.28
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直江津市長 |
- 川澄農治1954.6.1-1955.2
- 柳沢徹隆1955.4.30-1962.4
- 佐藤策次1962.7-1971.4.28
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合併後 |
- 小山元一1971.6-1973.12
- 植木公1974.2-1993.11
- 宮越馨1993.11-2001.11.8
- 木浦正幸2001.11.9-2009.11.8
- 村山秀幸2009.11.9-2021.11.8
- 中川幹太2021.11.9-
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