宮原 積(みやはら つもる[1] / せき[2]、1823年(文政6年)- 1884年(明治17年)[1])は、幕末の鳥取藩士・歌人、明治期の内政官僚。高山県知事、福島県権令。通称・大輔、号・海宇。
経歴
鳥取藩士の家に生まれる。儒者助役、学校文場吟味役、国学方、詩文方などを歴任。藩校・学館に国学局が設置された際、宮原に国学者の取立てが任され、飯田年平、新貞老、小谷古蔭などを起用した。幕末には国事に奔走[1]。
慶応4年6月5日(1868年7月24日)、維新政府により、徴士・越後府権判事に登用された[3]。その後、刑法官監察使、高山県知事を歴任[2]。
明治5年1月20日(1872年2月28日)、福島県権令に転任。大区小区制を推進した。同年6月2日(7月7日)に権令を罷免された[2]。
脚注
- ^ a b c 『鳥取県大百科事典』929頁。
- ^ a b c 『新編日本の歴代知事』208頁。
- ^ 「公文録・明治元年・第十四巻・戊辰一月~己巳六月・諸侯伺(池田因幡守慶徳)」
参考文献
- 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
- 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
- 『鳥取県大百科事典』新日本海新聞社、1984年。
- 太政官「公文録・明治元年・第十四巻・戊辰一月~己巳六月・諸侯伺(池田因幡守慶徳)」。国立公文書館 請求番号:本館-2A-009-00・公00014100