宇佐海軍航空隊(うさかいぐんこうくうたい)は、現在の大分県宇佐市の柳ヶ浦地区に開隊された大日本帝国海軍航空隊の部隊の一つであり、航空母艦に搭載する艦上爆撃機・艦上攻撃機の搭乗員と偵察員の延長教育を実施する航空隊であった。太平洋戦争開戦時には、日本国内で唯一の艦上爆撃機の搭乗員と偵察員の延長教育を行う航空隊であり、艦上攻撃機の搭乗員と偵察員の延長教育を行う航空隊としても最大の規模であった。その後、艦上爆撃機と艦上攻撃機の搭乗員と偵察員の延長教育を行う部隊として、名古屋海軍航空隊と百里原海軍航空隊が開隊されるものの、航空隊の規模としては宇佐海軍航空隊を上回ることはなかった。
太平洋戦争末期の沖縄戦において、保有する航空機と搭乗員において神風特別攻撃隊「八幡護皇(はちまんごおう)隊」を編成して沖縄本島西方沖の連合軍艦艇に特攻攻撃を実施した。
ロンドン軍縮条約の期限切れとともに、海軍は戦備の大増強を画策し、通称「③計画」を立案した。この中に14個航空隊の増設案が盛り込まれ、爆撃機・攻撃機搭乗員の訓練部隊のひとつとして、大分県宇佐郡柳ヶ浦村(現宇佐市)に飛行場を建設し、航空隊を設置することが決定した。周防灘に面し、洋上爆撃・雷撃訓練が容易なうえに、呉鎮守府にもほど近く、航空母艦を招いての発着艦訓練も頻繁に実施できた。
以後は乙航空隊の西海海軍航空隊が管轄する航空基地として機能し、第九三一海軍航空隊や第二〇三海軍航空隊戦闘三〇三飛行隊が展開した。そのため、米軍による空襲は終戦1週間前の8月8日まで続いた。
宇佐海軍航空隊は1945年(昭和20年)3月18日に米艦上機による初空襲を受けた。宇佐海軍航空隊は同年5月5日付で解隊されたが、宇佐基地に対する空襲は終戦1週間前の8月8日までの間、計11回行われた。
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