姜 昌熙(カン・チャンヒ、1946年8月3日 - )は、大韓民国の政治家。第11・12・14・15・16・19代国会議員で、第19代国会前半国会議長。忠清道出身で初の国会議長となった[1]。第19代科学技術部長官などを歴任。
本貫は晋州姜氏。キリスト教徒[2]。
経歴
1946年に忠清南道大田郡で生まれた。陸軍士官学校(25期)卒業[1]。陸軍大学教授などを務め、ハナフェに参加した。中佐で退役した[1]。
民主正義党の結党過程に参加した後、37歳の時に第11代総選挙で選出された全国区議員に繰り上げ当選してから国会入りした[1]。第12代総選挙で大田広域市中区から出馬し、再選を果たす[3]。民主正義党組織局長などを歴任[3]。第13代総選挙で同選挙区から出馬するが落選[3]。第14代総選挙で再選し[3]、1995年に行われた第1回全国同時地方選挙後に自由民主連合に入党した[3]。第15代総選挙でも再選し、この間に国会通信技術委員長、自由民主連合事務総長などを歴任した[4]。1997年大韓民国大統領選挙では金鍾泌の立候補を諦め、新政治国民会議の金大中に一本化し当選すると、科学技術部長官に指名された[5]。
第16代総選挙でも再選した。2002年6月に自民連の総裁でもある李漢東が総理を辞職したことに反発して、事務総長を辞職し[6]、副総裁に就任した[7]。2001年には、院内交渉団体の要件を満たすために新千年民主党から3人の議員を借りたことに強く反発し[8]、自民連を除名された[9]。同年10月には、ハンナラ党に入党した[10]。
2004年に行われた第17代総選挙では、ハンナラ党から出馬するが、ウリ党候補に敗れた[11]。2006年にはハンナラ党最高委員の選出されるが[12]、第18代総選挙では、自由先進党候補の追い上げから朴槿恵が応援に来るなどしたが落選[13]。
2012年に行われた第19代総選挙では、セヌリ党から立候補し当選を果たした[14]。国会議長の予備選挙に親朴槿恵派の中心人物[15]として出馬し、親李明博派の鄭義和を破った[1]。2012年7月2日に国会で議長に選出された[16]。忠清道出身では初めての議長となった。2013年には中国を訪問し、習近平国家主席と会談した[17]。
脚注
- ^ a b c d e 강창희 국회의장 후보 선출… “與엔 한번, 野엔 두번 듣고 국민엔 세번 묻겠다” 東亜日報 2012年6月2日
- ^ “대한민국헌정회”. www.rokps.or.kr. 2022年3月11日閲覧。
- ^ a b c d e 얼굴강창희 자민련사무총장 내정자 東亜日報 1997年7月1日
- ^ 자민련 사무총장에 강창희의원 내정 東亜日報 1997年6月30日
- ^ 김종필 총리서리체제 출범…金대통령,17부장관 임명 東亜日報 1998年3月3日
- ^ 자민련지도부, 사퇴 강창희前총장 "회유" 東亜日報 2000年6月6日
- ^ 자민련 당직개편정책위장 내정 이완구씨 "안맡겠다" 東亜日報 2000年9月1日
- ^ 社説 何のための「DJP共助」なのか 東亜日報 2001年1月3日
- ^ 자민련 '강창희제명' 결정JP "고집만 피우던 사람" 東亜日報 2001年4月7日
- ^ 김용환-강창희의원 입당 안팎한나라 "자민련과 공조 유지" 東亜日報 2001年10月19日
- ^ 선택 4·15與 올인카드 26명중 절반 못건져 東亜日報 2004年4月15日
- ^ 한나라당 대표 최고위원에 강재섭의원 東亜日報 2006年7月11日
- ^ 대전 중 강창희 東亜日報 2008年4月10日
- ^ 약속 2012 4·11총선與, 충청 절반 - 강원 9곳 석권… 선진은 14석→3석 몰락 東亜日報 2012年4月12日
- ^ 韓国第19代国会 議長にセヌリ党の姜昌熙氏 聯合ニュース 2012年7月2日
- ^ 19대 국회 전반기 강창희 국회의장 선출 東亜日報 2012年7月2日
- ^ 中国全人代常務委員長、文喜相・国会議長に「THAADに対する立場を明確に」と迫る 東亜日報 2019年5月9日