天竹神社(てんじくじんじゃ)は、愛知県西尾市にある神社である。
概要
平安時代、この地に崑崙人(チャム人)が漂着し、綿が伝えられたという伝承があることから、日本で数少ない「綿」に関する神社である。
沿革
祭神
- 新波陀神
- この地に漂着した崑崙人を綿の神としたものである[1]。新波陀(にいはた)は綿を意味するという[注 1]。
神事
- 棉祖祭
- 10月の第4日曜日に行われる神事。
- 古式の道具を用い棉打ちの儀式が行われる[1]。また、崑崙人が船で漂着したことにちなんで、船神輿が担がれる[1]。
綿伝来の伝承
『日本後紀』、『類聚国史』、『大日本史』などに、以下のような内容の記述がある。
延暦18年(799年)、三河国幡豆郡(現在の矢作古川の河口付近)に1艘の小船が漂着した。その船には1人の若者が乗っていたが、全く言葉が通じなかった。布で背を覆ってふんどしをつけ、左肩に袈裟に似た紺色の布を着けた服装であった。所持品は一弦琴[注 2]と綿の種子が入っていた壺[注 3]などであった。唐人は「彼は崑崙人だ」と言ったという。その後、この漂着者は言葉を習い、自分は天竺からやってきたことを伝えたという[2]が、実際どこからやってきたかは、東南アジア、ペルシアなどの説もある。
崑崙人はこの地に住み、住民に綿の栽培を伝えた。さらに紀伊国、淡路国、阿波国、讃岐国、伊予国、土佐国、筑前国などで栽培方法を伝えた[注 4]後、近江国分寺で僧侶となったという。
崑崙人が漂着した地は天竺と改称され、その後「天竹」となったという。
交通機関
脚注
- ^ チャム語で「ニーパハ(Ni Pah)」は「これは綿だ」の意となる。
- ^ 詳細は不明。チャム族の一弦琴であるカニー(Kanyi)と推測される。ダン・ニー(ベトナム語:Đàn nhị / 彈二)は「二弦」の意であるが、この名称はカニーに由来するものと思われ、「二」といいながら一弦である。
- ^ 現在は天竹神社内の資料館に保管されている。
- ^ この綿の栽培は上手くいかず、9世紀頃には廃れたという。一説では、愛知県で栽培されている地綿は、この伝えられた綿のことという。
出典