大関 増輔(おおぜき ますすけ)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。下野国黒羽藩9代藩主。
宝暦10年(1760年)(もしくは宝暦12年(1762年)2月22日[1])、8代藩主・大関増備の長男として生まれる。実母は身分の低い女性だったと言われている。
明和元年(1764年)に父が没すると、10月22日に跡を継ぎ[1][2]、明和7年(1770年)3月26日に元服する。安永7年(1778年)5月6日、駿府加番に任命される[1]。翌安永8年(1779年)12月16日、従五位下・伊予守に叙任される[1]。
天明7年(1787年)2月2日、大阪加番となり[1]、寛政7年(1795年)1月26日[1]、寛政12年(1800年)2月6日にも大阪加番を命じられる[1]。享和2年(1802年)8月6日、病気を理由に長男・増陽に家督を譲って隠居した[1]。
文化4年(1807年)4月22日、江戸で死去。
系譜
父母
正室
子女
脚注
- ^ a b c d e f g h i j 『大関黒羽家譜』
- ^ a b c d 『寛政重修諸家譜』
出典
大関氏 黒羽藩9代藩主 (1764年 - 1802年) |
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