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この項目では、群馬県高崎市の大聖護国寺について説明しています。この寺の住職であった亮賢が江戸に開いた同名の寺については「護国寺」をご覧ください。 |
大聖護国寺(だいしょうごこくじ)は、群馬県高崎市八幡町にある真言宗豊山派の寺院である。東京の音羽護国寺の前身である[1]。
歴史
寺伝では、建保3年(1215年)、定弘の建立とされる[2]。定弘は、山城国醍醐寺で天皇の病気平癒の祈祷を行い、祈祷の本尊である不動明王像を下賜されたのち、当地に下向してこの寺を開基したのだという[2]。
寛永年間まで碓氷八幡宮(現在の上野國一社八幡宮)の別当寺で、現在も、上野國一社八幡宮の東に隣接している[3]。
寛文元年(1661年)、後に江戸幕府5代将軍となる徳川綱吉が、上野国館林藩に封ぜられると、綱吉の母・桂昌院は、帰依していた僧・亮賢を招き、上野国高崎の地にある当寺の第24世住職(碓氷八幡宮の別当職)に充てた[4]。
延宝8年(1680年)、綱吉が将軍となると、翌延宝9年、亮賢に幕府の有する高田御薬園の地を与えて一寺を開かせた[5]。
その寺は、当寺の名(大聖護国寺)を継いで、「神齢山 悉地院 大聖護国寺」と号したが、これが東京の音羽護国寺である[6]。なお「悉地院」という院号も、当寺の院号であったことが明徳元年(1390年)書写の経奥書に見える[7]。
脚注
- ^ 太子山天明寺ホームページ
- ^ a b 『角川日本地名大辞典 群馬県』568頁、『群馬県の地名』430頁
- ^ 『群馬県の地名』430頁
- ^ 『江戸東京の寺社609を歩く』140頁、『日本国誌資料叢書 武蔵』965頁、『群馬県の地名』430頁
- ^ 『日本名刹大事典』246頁、『江戸東京の寺社609を歩く』140頁、『日本国誌資料叢書 武蔵』965頁
- ^ 『江戸東京の寺社609を歩く』140頁、「天海と隆光」158頁
- ^ 『角川日本地名大辞典 群馬県』568頁
参考文献
関連項目
外部リンク