大竹 貫一(おおたけ かんいち、1860年4月2日(安政7年3月12日)[3][4] - 1944年(昭和19年)9月22日[1][3][4])は、日本の政治家。衆議院議員、貴族院勅選議員。族籍は新潟県平民[5][6][7]。
経歴
越後国蒲原郡中之島村(現:新潟県長岡市中之島)で、大庄屋・大竹英治の六男として生まれる[8][9][10]。若槻元輔、長善館(吉田町粟生津)の鈴木惕軒に漢学を学ぶ[8]。1873年、新潟学校に入り、1874年に官立新潟英語学校に入学し、土木工学を専攻したが[11]、1876年8月に中退した[8][12]。
1880年、中之島村会議員に就任(1912年まで在任)[8][12]。南蒲原郡会議員、新潟県会議員も務め、刈谷田川改修工事、大河津分水工事の実現に尽力し、「大竹宗」と呼ばれた強い選挙基盤を確立した[4][8]。
1894年3月、第3回衆議院議員総選挙に新潟県第四区から出馬して当選[13]。その後、第4回から第5回、第7回から第14回まで、第16回から第20回総選挙でも当選し、衆議院議員を通算16期、34年10ヵ月務めた[4][8][13]。1905年9月5日、河野広中らと日比谷公園で日露戦争の講和条約ポーツマス条約に反対する集会を開催し、それが暴動の引き金となったため(日比谷焼打事件)、大竹は検挙され起訴されたが1896年4月に証拠不十分で無罪となった[8][9][12]。日露事件の功のため勲四等に叙し旭日小綬章を賜る[5][7]。第一次世界大戦後には、普選運動に尽力し普通選挙法の実現に貢献した[4][8][10]。
大日本協会、進歩党、同志倶楽部、憲政会、革新倶楽部、革新党などを経て1932年、国民同盟に転じる[1]。
1938年2月14日、貴族院勅選議員に任じられ衆議院議員を退職[13][14][15]。1939年、支那事変(日中戦争)処理方針の意見書を提出し、同年12月4日、貴族院議員を辞職した[9][14][16]。藍綬褒章を賜る[17][18]。1944年9月22日、自宅で逝去した[11]。
人物
大竹家32代である[11]。大地主で[5][7]、土地の名望家だった[19]。1874年、家督を相続した[19]。
趣味は書画、骨董[17][18]。宗教は真宗[17][18]。住所は新潟県南蒲原郡中之島村[5]。
家族・親族
- 大竹家
- 親戚
伝記
- 伝記編纂会『大竹貫一先生小伝』大竹貫一伝記編纂頒布会、1953年。
脚注
参考文献
- 人事興信所編『人事興信録 第3版』人事興信所、1903-1911年。
- 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員党籍録 第一囘議会乃至第四十囘議会』衆議院事務局、1918年。
- 人事興信所編『人事興信録 第6版』人事興信所、1921年。
- 人事興信所編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年。
- 人事興信所編『人事興信録 第13版 上』人事興信所、1941年。
- 人事興信所編『人事興信録 第14版 上』人事興信所、1943年。
- 野島出版編集部編『新潟県県民百科事典』野島出版、1977年。
- 新潟日報事業社出版部編『新潟県大百科事典』復刻デスク版、新潟日報事業社出版部、1984年。
- 西方藤七編著『県央の人物 : 三条・燕・加茂・吉田・分水・寺泊・田上・栄・弥彦・岩室・下田』野島出版、1989年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 朝日新聞社編『現代日本朝日人物事典』朝日新聞社、1990年。
- 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。