大橋(おおはし)は島根県道261号母衣町雑賀町線上にある大橋川に架かる橋で、日本百名橋に選ばれた。松江大橋とも呼ばれる。
概要
今日ある橋は17代目にあたり、そのデザインは内藤伸が関わっている。1935年着工、1937年竣工。
工事中の1936年9月、この橋の現場監督である島根県技師の深田清が橋脚ケーソン内への落下物で事故死したことを追悼し、彼の胸像が第2橋脚に埋められている。また、初代の橋においては源助の人柱伝説があり、橋の南詰(源助公園)には2人の記念碑がある。
歴史
大山寺縁起によると、南北朝時代には当地に白潟橋という橋が架かっていたとされる。関ヶ原の戦いのころには、カラカラ橋という竹の橋が架かっていた。1607年、堀尾吉晴が松江城建築のために架橋工事を始め、翌年、初代にあたる153mの木の橋が完成する。北の末次と南の白潟の間にある唯一の橋として使われ、他の所属の船は南詰の渡海場(船着き場周辺)で必ず荷物を降ろさなければならなかった。
京極忠高が架け替えた(1637年)後、3代目(1660年)には元明、4代目(1685年)には玉大、5代目(1709年)には蓮台と名付けられた。14代目(1847年)では、正式名においても大橋となり、小泉八雲は「毒をもたないムカデのよう『知られざる日本の面影』」と表現した。15代目(1891年)では、近代的な鉄製トラス橋となった。16代目(1911年、鋼桁橋)完成の翌年、橋の北詰にはこの地方では初となる電信局が開設された。1929年(昭和4年)12月29日、発動機船が橋脚に衝突して床板が落下[1]。1934年(昭和9年)3月16日にも同様の事故があり橋の中央部が陥落した[2]。1937年(昭和12年)に今日ある橋が架けられた。
脚注
- ^ 通行は新大橋だけに、自動車など制限『山陰新聞』昭和9年3月17日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p287 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 松江大橋に機船が衝突、中央部陥落『山陰新聞』昭和9年3月17日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p287)
参考文献
- 松村博『日本百名橋』鹿島出版会
- 松江歴史館『雲州松江の歴史をひもとく 松江歴史館展示案内』[販売]ハーベスト出版
- 寺田甫(島根県土木課長). “土木画報 1937年1月号” (PDF). 松江大橋改築工事. p. 42-46. 2014年9月2日閲覧。
関連項目