大前 研一(おおまえ けんいち、1943年2月21日 - )は、日本の経営コンサルタント、起業家。
マサチューセッツ工科大学博士。マッキンゼー日本支社長を経て、カリフォルニア大学ロサンゼルス校公共政策大学院教授やスタンフォード大学経営大学院客員教授を歴任。
現在、ビジネス・ブレークスルー大学学長[1]、韓国梨花女子大学国際大学院名誉教授[1]、高麗大学名誉客員教授[1]、(株)大前・アンド・アソシエーツ創業者兼取締役[1]、株式会社ビジネス・ブレークスルー代表取締役社長[1]等を務める。
「ボーダレス経済学と地域国家論」提唱者[1]。
福岡県若松市(現北九州市若松区)出身。父・忠男は長崎県対馬の漁師の家に生まれた三男で、博多の百貨店に勤めていた時に陸軍に召集された陸軍大尉[2]。
第二次世界大戦中は山口県富田に疎開し、大阪府の親類の家に身を寄せた。1951年に母の出身地である神奈川県横浜市神奈川区反町に移り住んだ。1958年、横浜市立栗田谷中学校卒業。1961年、神奈川県立横浜翠嵐高等学校卒業。1965年、早稲田大学理工学部卒業[3][1]。1967年、東京工業大学理工学研究科原子核工学専攻修士課程修了、修士号取得[3][4][1]。1970年、マサチューセッツ工科大学原子力工学科大学院博士課程修了、博士号取得。同年マサチューセッツ工科大学電子光学研究所講師[4][1]。同年日立製作所へ入社(原子力開発部技師)[3][1]。
1972年には経営コンサルティング会社マッキンゼー・アンド・カンパニー入社[1]。書きためたノートを『企業参謀 戦略的思考とはなにか』のタイトルで1975年に出版[1]。マッキンゼー・アンド・カンパニーではディレクター、日本支社長、アジア太平洋地区会長を務めた[1]。1987年の「「見えない税金」に怒れ」で第49回文藝春秋読者賞受賞。
1992年11月、新自由主義を標榜する市民団体「平成維新の会」を設立し、同会代表に就任。翌1993年、文藝春秋3月号で「新・薩長連合結成宣言」を発表。1994年、マッキンゼー・アンド・カンパニーを退職[1][5]。知事連盟構想を掲げて1995年東京都知事選挙に立候補したが大きな支持は得られず供託金を没収される程の惨敗を喫する。同月の北海道知事選挙では、大前の構想に呼応した友人で登山家の三浦雄一郎が出馬したが落選した。また、同年7月23日に行われた第17回参議院議員通常選挙に、比例区から平成維新の会公認で大前、三浦を含めて10人が出馬したが全員落選した。平成維新の会は参院選惨敗後に事実上解散し、その後「一新塾」を主宰した(2003年1月より特定非営利活動法人化)。
1997年にカリフォルニア大学ロサンゼルス校公共政策大学院総長教授およびスタンフォード大学経営大学院客員教授に就任。1998年4月に教育関連事業会社「ビジネス・ブレークスルー」を設立し、2004年には構造改革特区制度により、株式会社運営による大学院大学「ビジネス・ブレークスルー大学院大学」を開校、2010年には大学化し、学長に就任した。自ら講義と学生指導を担当している。ビジネス・ブレークスルーは2005年12月に東京証券取引所マザーズに上場した。
2001年に石原慎太郎東京都知事(当時)に対し、ナローバンクのような店舗を持たない仮想銀行・ネット銀行構想を一般人の立場で持ちかけたことが切っ掛けとなり、2005年4月1日に新銀行東京が設立された。石原から事業案の依頼を受けていた大前は、自ら召集したマッキンゼーとの間でも何に融資するかを巡って意見が一致せず、自らはプロジェクトチームを下りた[6]。
2011年3月の福島第一原子力発電所事故の際、爆発で吹き飛んだ建屋にテントを張ればよいと一般人の立場で政府(菅直人内閣)に進言、政府の勧告で東京電力は1号機にテント式の建屋カバーを設置した。原子炉格納容器の天蓋コンクリートが吹き飛んで、格納容器の黄色いドーム状の蓋が露出し、その点検口が開いて中の蒸気が噴出している3号機への設置は見送られた。1号機の建屋カバーを撤去する際、放射性物質の飛散で空間放射線量や汚染水の濃度は一時的に高まった。
同年10月28日、一般人の立場で「福島第一原子力発電所事故から何を学ぶか」をまとめ、細野豪志環境大臣兼原子力発電所事故収束・再発防止担当大臣に提出した。
2012年9月11日、東京電力株式会社の取締役会の諮問機関として新設された「原子力改革監視委員会」の委員に就任した。
梨花女子大学国際大学院名誉教授、高麗大学名誉客員教授も務める一方、中国遼寧省(2002年就任)経済顧問、重慶市経済顧問(2010年就任)および天津市経済顧問(2002年就任)、中国中央電視台顧問(2011年就任)、マハティール・ビン・モハマド参謀など、世界の大企業やアジア・太平洋における国家レベルの経営コンサルタントとしても活躍し、2006年に大連市名誉市民となる[7][5][8]。