多治比 水守(たじひ の みずもり)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての貴族。左大臣・多治比嶋の子。官位は従四位下・宮内卿。
経歴
大宝2年(702年)尾張守を務めていた際に、文武天皇の行幸があり、封戸10戸を与えられた(このときの位階は従五位下)[3]。その後も尾張守(再任)・河内守・近江守と文武朝から元明朝にかけて地方官を歴任し、和銅2年(709年)には従四位下に至っている。また、同年9月に藤原房前による東海・東山道の行政監察が行われた際、国司としての統治の功績を賞されて田10町・穀200斛・衣1襲を与えられている[4]。
和銅3年(710年)宮内卿に任じられ京官に遷るが、翌和銅4年(711年)4月15日卒去。最終官位は宮内卿従四位下。
官歴
『続日本紀』による。
脚注
- ^ 『尊卑分脈』
- ^ 『公卿補任』
- ^ 『続日本紀』大宝2年11月13日条
- ^ 『続日本紀』和銅2年9月26日条
参考文献