城官寺(じょうかんじ)は、東京都北区上中里1丁目にある真言宗豊山派の寺院。
歴史
当寺院は昔筑紫(現在の福岡県)の安楽寺の僧侶が諸国巡礼の折、当寺に宿泊したことに始まる。その際に阿弥陀如来像を置き安楽院と称した寺院を創建した。当初はその関係から浄土宗の寺であった。[3]
その後、江戸時代になり、山川貞久(城官)という江戸幕府に仕えていた鍼灸師がいた。[3]ある時、三代将軍徳川家光が病で倒れた時、山川貞久は、豊島郡の平塚明神(現在城官寺に隣接してある平塚神社)に治癒を日夜祈っていた。家光の病気は治癒し、山川貞久は私財を投じて平塚明神を再建、さらに寛永11年(1634年)には平塚神社の別当して、当寺院を再興し真言宗の寺院とした。[3]
寛永17年(1640年)徳川家光が鷹狩りの際、当地を訪問。その際に平塚神社を見て、その豪華さに当神社は誰が造営したのかと村長に尋ねたところ、家光が病床の際に山川貞久が平塚神社に日々祈願し、治癒した事に感謝してここまでにしたと言ったと言われている。[2]
それを聞いた家光は感激し山川貞久を呼び出して、平塚神社と当寺院の社領として50石、さらに山川貞久に知行地として200石を与え、寺号を平塚山城官寺安楽院とするように命じたとされている。[2]
それ以来、格式ある寺院として知られるようになった。明治時代になり、神仏分離令により平塚神社と切り離され、現在に至っている。
当寺院には、江戸幕府に奥医師として仕えていた多紀桂山一族の墓(東京都指定文化財(史跡)、1936年指定)及び山川貞久一族の墓がある。(北区有形文化財[3])
主な施設
- 本堂
- 城官寺会館(各宗派の葬儀・法要が可能)
- 山門の額(城官寺300年を記念して当時の内閣総理大臣・田中角栄による書[3])
- 多紀桂山一族の墓
- 山川貞久一族の墓
アクセス
脚注
参考文献
関連項目
公式サイト