名村 泰蔵(なむら たいぞう、天保11年11月1日(1840年11月24日) - 明治40年(1907年)9月6日[1])は、日本の検事、判事、政治家、実業家。貴族院勅選議員、東京築地活版製造所社長、明治法律学校名誉校員[2]。
経歴
長崎で島村義兵衛の子として生まれる[3]。幼名を島村子之松、後に元健と称したとされる[4]。その後、阿蘭陀通詞の北村元助の養子となって北村元四郎と名を改める[3][4]。北村家は代々阿蘭陀通詞を継承した家柄であったため、オランダ語を学び、さらに英語・ドイツ語・フランス語も学んだ。1867年(慶応2年)、パリ万国博覧会に派遣された徳川昭武に随行した。
1868年(慶應4年)、30歳のとき、阿蘭陀通詞の名村八右衛門(名村元義)の養子となり[3]、名を泰蔵と改めた[4]。
1869年(明治2年)、長崎の「広運館」仏学局助教に任命され、フランス語の助教を務める傍ら、本木昌造の経営する新街私塾で英語とフランス語を教える[4][5]。
1872年(明治5年)には上京して司法省に入り理事官となった。司法省のヨーロッパ視察団の一員となったが、このときギュスターヴ・エミール・ボアソナードの知遇を得、ボアソナード招聘に尽力した。その後、翻訳課長、治罪法草案審査委員などを歴任し、1880年(明治13年)には太政官少書記官を兼任した。
1881年(明治14年)、司法権大書記官となり、参事院員外議官補に任命された。翌年、司法大書記官に昇進した。1886年(明治19年)、大審院検事長に就任。1892年(明治25年)には大審院長心得に任命され、翌年まで務めた。
1894年(明治27年)1月23日、貴族院議員に勅選された[6]。また東京築地活版製造所の社長も務めた。その社長在任中のまま明治40年9月6日、東京府東京市麹町区富士見町4丁目8番地の邸に於いて薨去。享年68。墓所は青山霊園。
栄典
- 位階
- 勲章等
脚注
参考文献
- 『大礼記念 長崎県人物伝』長崎県教育会、1919年。