台中不敬事件(たいちゅうふけいじけん)は、1928年(昭和3年)5月14日に発生した、久邇宮邦彦王(香淳皇后の父)が訪問先の台湾で自殺を計画していた朝鮮人の趙明河(チョ・ミンハ)に襲撃された暗殺未遂事件である。
概要
1928年(昭和3年)5月14日、午前9時50分に特命検閲使・久邇宮邦彦王が台北に向って出発する為、台中御泊所である佐藤続台中州知事官邸から台中駅に向かう途中、台中市大正町に於いて右側道路上に邦彦王を見送ろうと並んでいた台湾人公学校の生徒の列から、突然、法被を着た青年が「直訴」と連呼しながら懐から白布で包まれたものを取り出しながら飛び出し、邦彦王が乗車した御召自動車の後方に廻り、短刀を邦彦王に振りかざした。しかし、邦彦王の左前に陪乗した大沼大佐(久邇宮附武官)が咄嗟に邦彦王を右脇下に抱え、また運転手の右側に乗車していた台湾総督府の諏訪鶴松が外側から邦彦王の座席近くに来て、犯人からの危害を妨げた。
その結果、短刀は車体の後部幌部をかすめ、邦彦王の身体に傷をつける事が出来なかった。犯人は再び短刀を振りかざそうとしたが、御召自動車のスピードにかなわず、直接危害を加える事を断念して、短刀を邦彦王に向かって投げつけるもこれも当らず、左前の運転手の背部に刺さるが、運転手にも被害なく、御召自動車は以前運転を続け、予定通り台北に向けて出発した[1]。
一方、犯人は直ちに邦彦王を見送る為に列に並んでいた台中女子公学校の児童を引率していた同校訓導の内田賢吉および巡査の鄭有弟、蔡福の3名によって現行犯逮捕された[2]。また、犯人は犯行に及ぶ前にモルヒネを服用していた[3]。其の後、犯人は同年7月18日に台湾総督府の高等法院上告部において刑法75条[4]により死刑の宣告を受け[5][6]、不敬事件は一審制のため即日刑が確定し、同年10月10日に死刑を執行された[7]。この事件で台湾総督の上山満之進、総務長官の後藤文夫、警務局長の本山文平、台中州知事の佐藤続が引責辞任した。
犯人の経歴
- 氏名:趙鏞宇の次男・趙明河、1905年(明治38年)4月4日生。
- 性格:本人在鮮中は温順で素行も良く、思想上の問題点も無い。ただ、内地渡航後の思想については明らかでない。
- 経歴:1924年(大正13年)、松禾公立普通学校卒業、同年4月から1925年(大正15年)6月まで、松禾邑内医生・趙鏞基(叔父)の書生になる。同年6月から9月迄、黄海道金川郡庁の職員として雇われる。同年9月中、内地に渡航し、大阪市北区上福島町中三丁目620番地にある大阪電池製作所の職工となる。1927年(昭和2年)12月、台湾に渡る旨の通報あり。1928年(昭和3年)1月、台中市栄町ニ番地富貴園茶店内から年賀状を実家に郵送したのを確認されるが、これ以降消息不明。
- 家族:両親、妻、兄弟ほか13名がいるが、思想や其の他の容疑がある者はいない。
- 資産:資産は持っておらず、小作人として生計を立てている。
犯人の動機
趙明河がなぜ久邇宮邦彦王を暗殺しようとしたのか、その動機は台中地方法院検察官長による取調べ中での自供によって明らかになっている。それによると、朝鮮、内地、台湾での理不尽な扱いに対する世の中への絶望による自暴自棄とそれに伴う自殺願望がこの事件の引き金となり、初めから邦彦王を刺すつもりは無かったが、「ドウセ死ヌナラ宮様ヲヤツケテ自分モ死ナウト突嗟ニ思ツタ」と突発的な偶然の出来事だったとされる[9]。
台中不敬事件と上山満之進台湾総督の辞職問題
「台中不敬事件」の引責として、上山満之進は台湾総督を「依願本免官」として辞職した[10]。ただ、この辞職に対する田中義一の処理が問題となった。この問題は、1928年(昭和3年)の6月20日以降、『東京朝日新聞』[11]が初めに取り上げ[12]、『讀賣新聞』や『國民新聞』などでも取り上げられるようになった。この問題を以て立憲民政党や立憲民政党系の貴族院会派、同和会・同成会[13]などが田中を攻撃・批難した。この問題は、先の「水野錬太郎文部省大臣辞任優諚問題」[14]と相まって「第二の優諚問題」として問題視された[15]。問題となったのは、「優諚」つまり、天皇の言葉を田中が政治的あるいは恣意的に利用したという点である[16]。ところで、この上山辞任問題は、現地台湾の新聞(例:『台湾日日新聞』『台湾新聞』『台湾南日本新報』『台南新聞』『台湾経世新報』など)に於いては、取り上げられておらず、むしろ非難しており、上山台湾総督府の実績や手腕を称えているのである[17]。
経過
- 上山の辞表(5月15日)を田中が受け取り、天皇にその旨を奏上する。
- 天皇は辞任する必要はないという優諚を田中は受けるが、これを上山に伝えず。
- 上山の帰京後、田中が再度辞表を求める。
- 6月16日、上山の辞任が決定する[16]。
後任
・上山満之進台湾総督[10](加藤高明内閣の時に憲政会(後の立憲民政党)よりになる。田中義一とは個人的な付き合いがある[18])
→川村竹治[10](大正11年に貴族院議員に勅選され、立憲政友会系の交友倶楽部に属する人物[19])
・後藤文夫台湾府総務長官[20](貴族院議員の伊沢多喜男、同成会(反政友会系グループの総帥と関係を持つ[21])
→河原田稼吉[22](床次竹次郎や犬養毅の下で働き、近衛文麿との関係を築くなど立憲政友会系の人物[23])
・本山文平台湾総督府警務局長[22][24]
→大久保留次郎[22] (昭和2年、田中義一内閣のとき警視庁官房主事に就任し、三・一五事件などで活躍[25])
・佐藤続台中州知事[22][26]
→生駒高常[22][27](小原直(姉の夫)、田中義一内閣の時に原嘉道司法相の下で司法次官として働く[28]
原嘉道、立憲政友会の衆議院議員、横田千之助と関係を持ち、田中内閣の時司法大臣に就任[29])
*本山文平台湾総督府警務局長と佐藤続台中州知事は、文官高等懲戒委員会議決で「文官懲戒令第二条第一号二該当シ同第三条第二号及同第五条二依リ二箇月間年俸月割額十分ノ一ノ減俸二処」されたが[30][31]、両人は「依願本免官」で以て依願退職する[22]。
上山満之進台湾総督の辞任問題の歴史的位置づけ
- 李建志[32]。 李は、犯人である趙明河の死刑執行と台湾総督である上山満之進の更迭は、台湾を統治の強化の為の「秩序劇」であり、この2つの「秩序劇」は台湾に於ける<権威的捺印>[33]=天皇権威の維持する装置であった[34]と述べる。
- 王鉄軍[35]。 王は「台中不敬事件」と後に起きた「霧社事件」[36]に於いて上山満之進、石塚英蔵両台湾総督は各事件に対する政治責任を負う形で引責辞任したが、そこには台湾総督などの外地長官は「政治家、国家官僚として国家から付与された職務を履行しながら、それと対応すべき政治責任を負わなければならない政治理念」が存在し、つまり、植民地である台湾を民的(言葉・教育など)、政治的(制度・体制など)に内地と同化させなければならなくなったという背景が存在したのであり、上山・石塚両者の辞任は、「党利党略といった党の弊害より、近代民主政治上の政治家・官僚の職務と義務関係に生じた政治責任」であった[37]と述べる。
久邇宮邦彦王のその後
『チョ・ミョンハ義士研究会』に於いて、「邦彦王は短刀に塗られていた毒が回ったために翌年に死亡した」と主張し、このテロ事件を「朝鮮独立闘争の出発点」としている[38]。しかし、久邇宮邦彦王は「台中不敬事件」の約半年後、昭和4(1929)年1月23日午後1時半頃、「突然椅子より倒れ一時御失神の状態に陥らせられ」、翌日24日に下血、その後、容体は悪化し続け、同月27日午前1時頃「嘔吐せられた後御容態変容し、腹膜炎併発」し、同日午後0時29分に「御安らけく英霊は永へに神去り給ふと」、病死する[39]。
脚注
- ^ 『別紙第一「邦彦王殿下ニ対シ奉リ不逞鮮人ノ危害ヲ加ヘ奉ラントシタル顛末[秘密 三二三 一三 特検第三七号一 久邇宮殿下ニ危害ヲ加ヘントシタル兇漢ニ関スル件報告 特命検閲使属員松木直亮発陸軍大臣白河義則殿宛 昭和参年五月廿日」〔「台中事件に関する軍部の立場の件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01003835500、密大日記 第4冊 1928年(昭和3年)防衛省防衛研究所〕』陸軍省、資料作成年月日:1927年(昭和2年)11月~1928年(昭和3年)6月23日。
- ^ 「久邇宮殿下の自動車に迫り短刀で危害を企つ 犯人は朝鮮人趙明河/台湾」『読売新聞』1928年6月15日、朝刊7頁。
- ^ 『別紙第二「不敬事件ニ関スル件 犯人身体ノ異状」「別紙第一「邦彦王殿下ニ対シ奉リ不逞鮮人ノ危害ヲ加ヘ奉ラントシタル顛末」[秘密 三二三 一三 特検第三七号一 久邇宮殿下ニ危害ヲ加ヘントシタル兇漢ニ関スル件報告 特命検閲使属員松木直亮発陸軍大臣白河義則殿宛 昭和参年五月廿日」〔「台中事件に関する軍部の立場の件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01003835500、密大日記 第4冊 1928年(昭和3年)防衛省防衛研究所〕』陸軍省、資料作成年月日:1927年(昭和2年11月~1928年(昭和3年)6月23日。
- ^ 第一章「皇室ニ対スル罪」
- 第73條:天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ對シ危害󠄂ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者󠄁ハ死𠛬ニ處ス
- 第74條:天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ不敬ノ行爲アリタル者󠄁ハ三月󠄁以上五年以下ノ懲󠄁役ニ處ス神󠄀宮又ハ皇陵ニ對シ不敬ノ行爲アリタル者󠄁亦同シ
- 第75條:皇族ニ對シ危害󠄂ヲ加ヘタル者󠄁ハ死𠛬ニ處シ危害󠄂ヲ加ヘントシタル者󠄁ハ無期󠄁懲󠄁役ニ處ス
- 第76條:皇族ニ對シ不敬ノ行爲アリタル者󠄁ハ二月󠄁以上四年以下ノ懲󠄁役ニ處ス
(改正刑法『改正刑法』博文館、1907年、23-24頁参照)
- ^ THE JAPANESE AMERICAN「朝鮮人趙明河徐を宣告する台湾不敬事件」[Nichibei Shinbun_19280719] rfc: J20011150700(jan_19280719(スタンフォード大学フーヴァー研究所)所蔵、『日米新聞』1928年7月19日、1面。
- ^ 「久邇宮に危害を企てし不敬漢の鮮人死刑 台湾で無謀を働きし趙明河」[Shin Sekai 1928.07.19]rfc: J21021558000(tnw_19280719(スタンフォード大学フーヴァー研究所所蔵)、『新世界新聞』1928年7月19日、1面。
- ^ 『「死刑執行」『官報』』日本マイクロ写真、1928年10月25日、622頁。「「朝鮮黄海松禾郡下里面長泉里三百十番地趙明河ハ刑法第七十五条ノ罪及殺人未遂ノ罪ニ付本年七月十八日台湾総督府高等法院上告部ニ於テ死刑ノ宣告ヲ受ケ同時ニ確定シタル処本月十日執行セラレタリ」」
- ^ 『別紙「犯人ノ身元調査書」[密 三二三 一一 □参密第六二号 殿下ニ危害ヲ加ヘントシタル鮮人ノ身元ニ関スル件 朝鮮軍参謀長伯爵寺内寿一発陸軍次官畑英太郎殿宛 昭和三年五月十六日]〔「台中事件に関する軍部の立場の件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01003835500、密大日記 第4冊 1928年(昭和3年)防衛省防衛研究所〕』陸軍省、資料作成年月日:1927年(昭和2年)11月~1928年(昭和3年)6月23日。
- ^ 『「別紙第四「台中地方法院検察官長ノ犯人調査状況 台中州警務部長発警務局長宛電話報告筆記 昭和三年五月十六日午后十時三十分」[「秘密 三二三 一三 特検第三七号一 久邇宮殿下ニ危害ヲ加ヘントシタル兇漢ニ関スル件報告 特命検閲使属員松木直亮発陸軍大臣白河義則殿宛 昭和参年五月廿日」]〔「台中事件に関する軍部の立場の件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01003835500、密大日記 第4冊 1928年(昭和3年)防衛省防衛研究所』陸軍省、資料作成年月日:1927年(昭和2年11月~1928年(昭和3年)6月23日。
- ^ a b c 「敍任及辭令 昭和三年六月十六日」大蔵省印刷局編『官報』441号、日本マイクロ写真、1928年06月18日、468頁
- ^ 「辞表執奏問題で政府を問責 民政党慎重に調査」『東京朝日新聞』朝刊3頁、1928年6月22日
- ^ 6月26日(火) 曇、少雨、夜雨/冷「今朝、東京日日新聞紙には、貴族院に於ては首相が上山総督を辞任せしめざることに御裁可を仰ぎながら、其旨を総督に通知せず、総督は曩に呈出したる日付に於て同一理由の辞表を提出を出し免官となれりとて、首相の処置を攻撃するの記事あり。又、其中に侍従職某高官の辞なるものあり。不穏なり。」(河井弥八著/高橋紘ほか編『昭和初期の天皇と宮中:侍従次長河井弥八日記』第二巻、岩波書店、1993年、109-110頁)
- ^ 同成会には井上準之助、片岡直温、江木翼、伊沢多喜男など、同和会には若槻礼次郎、上山満之助、幣原喜重郎など、立憲民政党内閣時に主要ポストを歴任した人物が参加している。
(『貴族院議員各派別: 五年十二月調』貴族院、1930年)
- ^ 第16回衆議院総選挙後の内閣改造にあたり、田中は友人の久原原之助を逓信大臣に入閣させようとしたが、水野はこれに反対し辞職しようとした。久原は久しく田中の後援者であったが、多額の負債を抱え「財界の失敗者」として言われていたからであった。水野の辞表は田中首相により執奏され、その後、天皇と会見した水野は「国務の為め尽瘁せよ」との優諚を受け、宮中からの帰路、田中にその旨を伝え、記者団にも話した。ところがその翌日、優諚を利用して職に留まるとか、天皇の政治利用あるいは優諚の捏造などという議論も飛び出し、新聞各紙や政界は大騒ぎとなった。貴族院では閉会中にも関わらず、各会派が集まり、田中から首相問責の共同声明を採択するに至った。(西尾林太郎『貴族院議員水野直とその時代』芙蓉書房、2021年、348頁)
- ^ 「第2の優諚問題に公正会もいよいよ蹶起 真相調査に着手す ほか」『讀賣新聞』朝刊2頁、1928年6月26日」
- ^ a b 「辞表却下の聖旨を上山氏に伝達せず 田中首相不臣問責の叫び 再び貴族院に揚る」『東京朝日新聞』夕刊1頁、1928年6月22日
- ^ 前掲王「近代日本政治における台湾総督制度の研究」2008年、152-155頁
- ^ 宇野俊一「上山満之進」『国史大辞典』https://japanknowledge.com/library/
- ^ 伊藤隆「川村竹治」『国史大辞典』https://japanknowledge.com/library/
- ^ 「辞任及辞令」大蔵省印刷局 編『官報』第449号、日本マイクロ写真、1928年6月27日、712頁
- ^ 伊藤隆「後藤文夫」『国史大辞典』https://japanknowledge.com/library/
- ^ a b c d e f 「台湾総督府異動」『東京朝日新聞』夕刊1頁、1928年7月21日
- ^ 伊藤隆「河原田稼吉」『国史大辞典』https://japanknowledge.com/library/
- ^ 「台湾警務局長近く更迭」『東京朝日新聞』朝刊2頁、1928年7月17日
- ^ 伊藤隆「大久保留次郎」『国史大辞典』https://japanknowledge.com/library/
- ^ 「佐藤続」人事興信所編『人事興信録』第8版、人事興信所、1928年、サ39頁
- ^ 「生駒高常」人事興信所編『人事興信録』第17版上巻、人事興信所、1953年、イ58頁
- ^ 伊藤隆「小原直」『国史大辞典』https://japanknowledge.com/library/
- ^ 由井正臣「原嘉道」『国史大辞典』https://japanknowledge.com/library/
- ^ 「文官懲戒令 明治三十二年三月 勅令第六十三号」文官高等懲戒委員会編『懲戒法規』文官高等懲戒委員会、1911年、7-13頁
- ^ 「●文官高等懲戒委員会議決
文官高等懲戒委員会ハ台湾総督府警務局長本山文平ニ対スル懲戒事件ニ付本月十六日左ノ如ク議決セリ
文官高等懲戒委員会ハ台湾総督府警務局長本山文平ニ対スル懲戒事件ヲ審査スルニ右山本文平ハ昭和三年五月十四日 特命検閲使久邇宮邦彦王殿下 台中御泊所ヨリ台北ニ御帰還ノ為台中停車場ニ向ハセラルル御途中大正町ニ於テ畏クモ一兇漢カ如実御召自動車ヲ犯シ殿下ニ対シ奉リ暴行ヲ為スヲ防止スルコト能ハサリシモノナリ
以上の事実ハ台湾総督ノ審査要求□及其ノ附属書類ニ横シテ明白ナリ
右ハ畢竟職務ノ執行宜ヲ得サルニ基クモノニシテ文官懲戒令第二条第一号二該当シ同第三条第二号及同第五条二依リ二箇月間年俸月割額十分ノ一ノ減俸二処スヘキモノト議決ス
文官高等懲戒委員会ハ台湾総督台中州知事佐藤続ニ対スル懲戒事件ニ付本月十六日左ノ如ク議決
文官高等懲戒委員会ハ台湾総督台中州知事佐藤続ニ対スル懲戒事件ヲ審査スルニ右山本文平ハ昭和三年五月十四日 特命検閲使久邇宮邦彦王殿下 台中御泊所ヨリ台北ニ御帰還ノ為台中停車場ニ向ハセラルル御途中大正町ニ於テ畏クモ一兇漢カ如実御召自動車ヲ犯シ殿下ニ対シ奉リ暴行ヲ為スヲ防止スルコト能ハサリシモノナリ
以上の事実ハ台湾総督ノ審査要求□及其ノ附属書類ニ横シテ明白ナリ
右ハ畢竟職務ノ執行宜ヲ得サルニ基クモノニシテ文官懲戒令第二条第一号二該当シ同第三条第二号及同第五条二依リ二箇月間年俸月割額十分ノ一ノ減俸二処スヘキモノト議決ス
(「彙報 判決 文官高等懲戒委員会議決」大蔵省印刷局編『官報』470号、日本マイクロ写真、1928年7月21日、5頁」)
- ^ 李建志「研究ノート 台中不敬事件」『言語教育研究センター研究年報』23巻、2020年、107-113頁
- ^ 李建志「研究ノート 台中不敬事件」『言語教育研究センター研究年報』23巻、2020年、107-113頁
- ^ 前掲李「研究ノート 台中不敬事件」2020年、112-113頁
- ^ 王鉄軍「近代日本における台湾総督制度の研究」『中京法学』43巻1号、2008年、1-191頁
- ^ 1930年(昭和5)年10月27日、台中州能高郡霧社(現南投県仁愛郷)一帯のタイヤル族6部落300余名が、マヘボ部落のモーナ・ルーダオの指揮で一斉に蜂起し、奥地の警察官駐在所を襲撃、ついで霧社公学校の運動会開催中を襲い、日本人134名を殺害した事件。(岡部牧夫「霧社事件」『日本大百科全書』https://japanknowledge.com/library/)
- ^ 前掲王「近代日本における台湾総督制度の研究」2008年、156頁
- ^ ““조선 독립투쟁 출발점 ‘조명하 義士 의거’ 세상에 알릴 것””. www.munhwa.com (2018年8月3日). 2019年3月3日閲覧。
- ^ 『邦彦王行実』久邇宮、1929年(昭和14年)、397-404頁
主な参考文献・史料
- 李建志「研究ノート 台中不敬事件」『言語教育研究センター研究年報』23巻、2020年、107-113頁
- 王鉄軍「近代日本における台湾総督制度の研究」『中京法学』43巻1号、2008年、1-191頁
- 上山満之進著/上山君記念事業会編『上山満之進』上巻、成武堂、1941年
- 「台中事件に関する軍部の立場の件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01003835500、密大日記 第4冊 1928年(昭和3年)防衛省防衛研究所