古川 尭道(ふるかわ ぎょうどう、明治5年11月9日(1872年12月8日) - 昭和36年(1961年)4月17日[1])は、明治・大正・昭和期の臨済宗の僧。島根県簸川郡出東村(現・出雲市)の生まれ。出家後しばらくは本名の古川慧訓を通す。号は尭道。室名は毒狼窟。
釈宗演に学び、東慶寺初の男性住職として赴任、さらに円覚寺管長を務めた。渡米して布教し、帰国後は再度管長に復帰。鎌倉、東京に拠点を置いて宗風を挙揚した[2]。
生涯
円成寺で得度し、松江萬壽寺の勝平大航に学ぶ。のち、井上九峰、中原鄧州、瑞龍僧堂の遠山禪外らの下で修行を継続し、1892年、円覚寺僧堂師家釈宗演門下に入り嗣法。さらに1899年、南禅寺の豊田毒湛に就いた。のちに普応寺住職。1903年からは初の男性住職として東慶寺住職を務め、関興寺、淨智寺を経て、1916年、円覚寺僧堂師家、1920年、師の釈宗演の後任として円覚寺派管長に就任。1930年、辞職して北米に渡り布教。帰国後の1935年、再び管長となる。退山後は横浜市中区元戸部町の天池庵に隠住した[3][4][5]。1961年、遷化。90歳[4]。
著書
脚注
- ^ 『昭和物故人名録 : 昭和元年~54年』日外アソシエーツ、1983年、p.435。
- ^ 現代佛教會要覧 菅原洞禪編 修養世界社、1937 p.36
- ^ 楞伽窟年次傳 釋敬俊編纂 大中寺、1942 p.220
- ^ a b “コトバンク”. 2017年5月29日閲覧。[リンク切れ]
- ^ 禪話十二講 吉川弘文館編・発行、1936 p.242
関連項目
参考文献
- 現代佛教會要覧 菅原洞禪編 修養世界社、1937 p.36