南麻布(みなみあざぶ)は、東京都港区の地名。麻布地区総合支所管内に当たり、現行行政地名は南麻布一丁目から南麻布五丁目。郵便番号は106-0047(芝局管区)[3]。
地理
港区西部に位置する。北で西麻布、北東で元麻布・麻布十番、東で三田、南で白金、南西で渋谷区恵比寿、西で渋谷区広尾と隣接する。坂が多く見られ、仙台坂、木下坂、北条坂(鉄砲坂)、青木坂、新富士見坂、南部坂などが残る。
歴史
江戸時代は街外れで麻布村の主要耕作地だったほか、寺社地も多く、また大名、小名の下屋敷が置かれていた。今に残る仙台坂、南部坂、北条坂、青木坂は、各藩の屋敷に由来する。江戸中期には、将軍家の別荘である白銀(しろかね)御殿(麻布御殿・富士見御殿とも呼ばれる)が存在した。明治から大正時代にかけ開発が行われ、後に各国の大使館が設置されるに伴い徐々に今日の国際色豊かな都心の住宅街へと変貌を遂げていった。
1962年(昭和37年)の「住居表示に関する法律」の施行を受け1966年(昭和41年)、麻布東町、麻布竹谷町(たけやちょう)、麻布新堀町(しんぼりちょう)、麻布富士見町(ふじみちょう)、麻布盛岡町(もりおかちょう)、麻布田島町、麻布広尾町(ひろおちょう)の各全域に、麻布本村町(ほんむらちょう)、麻布新広尾町(しんひろおちょう)の一部を合わせて再編し、南麻布となった。
地名の由来
町名は、旧麻布区の南部であることに由来する。なお、旧町名の由来については以下を参照。
- 麻布広尾町 - 地名の起源については広岡、平尾、広野など諸説あり定かでない[6]。江戸初期までは荒野で、渋谷まで続く低地帯は広尾原と呼ばれていた[6]。
- 麻布新堀町 - 町の東と南に新堀川(古川)が流れていたことに由来する[6]。
- 麻布田島町 - 元禄期から享保期まで新堀向と呼ばれたが、近傍に三田龜塚の代地二ヶ所と西久保天徳寺領屋敷があるのをあわせて田島町と称した[6]。「田の中の島」に由来するという説があるが定かではない[6]。
- 麻布竹谷町 - 里俗で竹ヶ谷(たけがや)と呼ばれていたことに由来する[6]。
- 麻布富士見町 - 徳川将軍家の別荘の白銀御殿(別名、麻布御殿、富士見御殿など)があったことから、1872年(明治5年)に富士見御殿にちなんで名づけられた[6]。
- 麻布盛岡町 - 延宝年間には南部藩の邸地となっており、1872年(明治5年)に南部氏が盛岡城主だったことにちなんで名づけられた[6]。
町名の変遷
実施後
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実施年月日
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実施前(特記なければ各町丁ともその一部)
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南麻布一丁目
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1966年4月1日
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麻布本村町の一部、麻布東町、麻布竹谷町、麻布新堀町、麻布富士見町、麻布広尾町、麻布盛岡町、麻布新広尾町1〜3
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南麻布二丁目
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麻布本村町の一部、麻布東町、麻布竹谷町、麻布新堀町、麻布富士見町、麻布広尾町、麻布盛岡町、麻布新広尾町1〜3
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南麻布三丁目
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麻布本村町の一部、麻布東町、麻布竹谷町、麻布新堀町、麻布富士見町、麻布広尾町、麻布盛岡町、麻布新広尾町1〜3
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南麻布四丁目
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麻布本村町の一部、麻布東町、麻布竹谷町、麻布新堀町、麻布富士見町、麻布広尾町、麻布盛岡町、麻布新広尾町1〜3
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南麻布五丁目
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麻布本村町の一部、麻布東町、麻布竹谷町、麻布新堀町、麻布富士見町、麻布広尾町、麻布盛岡町、麻布新広尾町1〜3
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世帯数と人口
2019年(令和元年)9月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[2]。
丁目 |
世帯数 |
人口
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南麻布一丁目
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2,575世帯
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4,275人
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南麻布二丁目
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2,552世帯
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4,100人
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南麻布三丁目
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1,750世帯
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3,211人
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南麻布四丁目
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1,904世帯
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3,567人
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南麻布五丁目
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1,086世帯
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2,197人
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計
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9,867世帯
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17,350人
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小・中学校の学区
区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[7]。
交通
鉄道
路線バス
道路
施設
南麻布一丁目
南麻布二丁目
南麻布三丁目
南麻布四丁目
南麻布五丁目
脚注
関連項目
外部リンク
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