南条 元忠(なんじょう もとただ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。伯耆羽衣石城主。
生涯
天正7年(1579年)、南条元続の子として生まれた。
天正19年(1591年)、父の死去に伴い家督を継ぐが少年であったため、朝鮮出兵には叔父で後見人の小鴨元清が参加した(『羽衣石南条記』等によれば当時13歳であったという)。
治世についてはあまり多く伝えられていないが、家中では後見人の座を巡る争いが起こるなどの混乱が生じていた。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは西軍につき、伏見城・大津城を攻めたが、西軍が敗れたため、浪人となる。
慶長19年(1614年)、大坂冬の陣では、旧臣とともに大坂入城、平野橋口で3000人の兵を与えられる。
徳川方の藤堂高虎の誘いを受け、伯耆一国を条件に徳川方に寝返ろうとするも、渡辺糺に見破られ、城内千畳敷で切腹させられる。享年37。
「裏切りの 伯耆侍 古畳み 南条もって 役にたたばや」と落首された。遺骸は小姓の佐々木吉高によって持ち帰られた。なお、従兄の宜政の子孫は、600石を知行する旗本として存続した。