北川 正恭(きたがわ まさやす、1944年〈昭和19年〉11月11日 - )は、日本の政治家、政治学者。
三重県知事(第4代、2期)、衆議院議員(4期)、三重県議会議員(3期)を歴任。早稲田大学大学院公共経営研究科名誉教授、および早稲田大学マニフェスト研究所(プロジェクト研究所)顧問・前所長。富士通株式会社社外取締役。四日市大学客員教授。
来歴・人物
1944年(昭和19年)11月11日、三重県鈴鹿市に生まれた。三重県立神戸高等学校、早稲田大学商学部卒業。学位は商学士(早稲田大学)。大日本印刷に勤務した。
1972年(昭和47年)、補選で三重県議会議員に初当選し、連続3期務めた。
1983年(昭和58年)の第37回衆議院議員総選挙で自由民主党から出馬し、初当選した。当選同期に、田中直紀、熊谷弘、二階俊博、野呂田芳成、額賀福志郎、衛藤征士郎、田中秀征、尾身幸次、町村信孝、伊吹文明、自見庄三郎、中川昭一、大島理森、野呂昭彦、鈴木宗男、甘利明などがいる。福田派→安倍派→三塚派に所属した。
自民党では、文部政務次官、党文教部会会長代理、党労働部会副部会長、衆議院政治改革調査特別委員会理事、党副幹事長などを歴任した。
1994年(平成6年)の細川内閣総辞職を機に、同年4月15日、鹿野道彦らと共に自民党を離党して、新党みらいを結党。党幹事長に就任した。その後、他の政党会派と合併した新進党に加わった。
衆議院議員任期中の1995年(平成7年)、同じ三重県出身の岡田克也に推され、同年4月9日執行の三重県知事選挙に立候補した(告示日の同年3月23日付で公職選挙法の規定により衆議院議員を退職(自動失職))。選挙では自民党公認候補を破って初当選を果たし、2期務めた。当初は新進党が支援母体であり、2期目は、自・社・公・民の4党による相乗りのオール与党体制であったが、公式には政党・団体の推薦・支持を得なかったため「無党派知事」といわれた。
2003年(平成15年)に長期政権は癒着が生じるとして不出馬を表明した。国政復帰も囁かれたが、政治の根本を変えるには若い政治家を育てる必要性があると説き、早稲田大学大学院公共経営研究科教授に就任した。2015年(平成27年)退任。
選挙における政党の政権公約としてのマニフェストを提唱し、日本に広めた。21世紀臨調共同代表。せんたく発起人代表。
テレビではTBS系『ブロードキャスター』(レギュラーとしては2004年秋から2008年秋まで)、『みのもんたの朝ズバッ! → 朝ズバッ!』(2010年春から2014年3月まで)にコメンテーターとして出演していた。
家族
家族は妻と2男。次男は、サッカーJ2・ファジアーノ岡山代表取締役会長[2]の北川真也。
父は北川正雄(元三重県議会議長)[3]。伯父(母の兄)に久保田藤麿(元衆議院議員、元参議院議員)がいる[4]。
知事在職中の業績
1995年(平成7年)に三重県知事選挙で当選した後、岩手県の増田寛也、宮城県の浅野史郎、高知県の橋本大二郎、鳥取県の片山善博らとともに「改革派知事」として注目された。その改革内容については賛否両論ある。
おもな業績を以下に記す。
- 県庁の組織を再編し、片仮名表記の部署を多く設置した。(これについては、県民から分かりにくいとの苦情もあり、後任の野呂昭彦知事によってほとんどが元の名前に戻された)
- 1997年(平成9年)に「三重のくにづくり宣言」を発表した。
- 中部電力が南島町と紀勢町の境界に建設を計画していた芦浜原子力発電所を、住民の賛同が得られているとはいえないとして、2000年(平成12年)に白紙撤回した。これを受けて中部電力は計画を断念した。
- 三重県下で人口10万人当たりの交通死亡事故発生率が全国ワースト1位となったことを受け、2000年11月13日、「交通死亡事故多発非常事態宣言」を発表した。
- 2001年(平成13年)に産業廃棄物税を導入した。これにより、事業者に対して産業廃棄物1トンあたり1000円の税金が課されることとなった。
- リサイクル製品の認定制度を充実させた。しかし、石原産業によるフェロシルト問題の誘引ともなった。
- トップセールスによりシャープの工場建設を積極的に誘致した。亀山市とあわせて135億円の補助金(多額の税金)を一社に提供し、2002年(平成14年)にシャープは亀山市に液晶テレビなどを製造する工場を建設すると発表した(参考、クリスタルバレー構想)。しかし2010年(平成22年)に稼動した堺工場完成後は、液晶テレビの主力工場は亀山工場より堺工場に移る。また、中国での液晶製造を発表し、亀山工場の施設の一部を移転すると示唆している。2009年(平成21年)9月に売却対象のうち補助金で購入した設備に関し、三重県は条例に基づき補助金の一部返還を求める方針を決定した。
- 廃棄物固形燃料によるごみの有効利用を推進した。しかし2003年(平成15年)に多度町の発電プラントで火災事故が起こり、作業員や消防士7人が死傷、サイロは解体に追い込まれた。県民の間では導入を急ぎすぎたとして非難の声も上がっている。初期工事費650億円を投じ、その後の追加工事費を含め1000億円以上費やした廃棄物固形燃料プラントRDFプラントは2016年廃止が三重県議会で発表されている。建設工事をおこない、メインテナンスを担当した富士電機は施工・メンテナンス実績が皆無であったことも事故の原因であった。北川の地元鈴鹿市に工場があり、天の声が下った怪しさが伊勢新聞に報道されている。
略歴
文献
著書
共著
関連文献
脚注
参考文献
- 『新訂 現代政治家人名事典 : 中央・地方の政治家4000人』日外アソシエーツ、2005年。
関連項目
外部リンク
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「小泉語録」(米百俵・聖域なき構造改革・恐れず怯まず捉われず・骨太の方針・ワイドショー内閣・改革の「痛み」) 小泉純一郎(内閣総理大臣)
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