加藤 明堯(かとう あきたか)は、近江水口藩の第4代藩主。水口藩加藤家8代。
生涯
元文5年(1740年)8月23日、摂津尼崎藩主・松平忠名の次男として江戸で生まれる。母は側室であり、寛保2年(1742年)に正室の子として松平忠告が生まれると、明堯は「庶子たるにより家督たらず」とされ、宝暦元年(1751年)4月19日に忠告が嫡子とされた[1][2]。
第5代藩主・加藤明煕の長男・幾之助が早世したため、明煕の養子となった。宝暦12年(1762年)12月18日、能登守に任官する。明和4年(1767年)に養父が死去したため、家督を継いだ。12月8日に伊勢守に遷任する。藩政では目安箱を設置するなどして、広く意見を求めた。
安永7年(1778年)5月6日に家督を養子の明陳に譲って隠居する。天明5年(1785年)8月10日に死去した。享年46。
系譜
父母
正室
養子
脚注
注釈
出典
加藤氏 水口藩4代藩主 (1767年 - 1778年) |
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加藤家 | |
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鳥居家 | |
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加藤家 | |
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