劉 発(りゅう はつ、? - 紀元前127年[1])は、前漢の皇族。景帝の七男で、武帝の異母兄。劉氏長沙国の初代王で、光武帝の先祖として知られる[2]。
略歴
母の唐姫は、景帝の寵姫である程姫の侍女であった。ある日、景帝は程姫を召し出したが、程姫は月経があって召し出しに応じることを望まなかったので、侍女の唐氏を飾らせて代役に立てた。景帝はその時酔っていて気づかずに彼女と同衾し、唐氏はそれで妊娠した。あとからそれが発覚したので、子供が生まれるとそのことにちなんで「発」と名づけた。
劉発は景帝前2年(紀元前155年)に長沙王に立てられた。母が微賤で寵愛されていなかったため、貧しい国に封じられたのである。景帝後2年(紀元前142年)、諸王が長安に入朝した際、王が前に出て歌舞をするよう命じられた。長沙王劉発は手を小さく出す不恰好な舞いであったために周りの者が笑った。景帝が怪しんで聞くと、「私の国は狭いものですから、十分に旋回することも出来ないのです」と答えた。景帝はそこで武陵、零陵、桂陽を長沙国に加増してやった。
元朔2年(紀元前127年)に死去し、定王と諡された。長沙王は子の劉庸以後も続いたが一時断絶し、復興を許されて王莽の時代になるまで続いた。
また、劉発は成長した8人の子供たちに領地を与え列侯とした。
子
脚注
- ^ 『漢書』巻15王子侯表上、巻53長沙定王発伝より。『史記』五宗世家では紀元前129年逝去と記されている。
- ^ a b 『三国志』蜀書「先主伝」にある裴松之が引く『典略』(魏略)によれば、劉備もその子孫とされる。
参考文献
- 班固著『漢書』巻15王子侯表上、巻53長沙定王発伝
- 范曄著『後漢書』本紀1上光武帝紀上、列伝1劉玄伝