兼平 信孝(かねひら のぶたか)は、江戸時代前期の弘前藩士。
生涯
兼平信秋の子として誕生。慶長14年(1609年)、弘前城の築城や城下町の造成に関わった。
元和5年(1619年)、国替え騒動の際にも服部康成と共に功績があった。この際、隠居していた祖父・綱則が城に押しかけ、国替えに断固反対をしたと伝わる。
寛永2年(1625年)、父の死で家督1,200石を継ぎ、津軽姓を許された。後500石を加増され、家老となった。寛永8年(1631年)、船橋長真らと軋轢が生じ、寛永10年(1633年)家老を免職された。翌寛永11年(1634年)には津軽氏の重臣の多くを巻き込んだ大騒動(船橋騒動)に発展した。幕府の裁定により、寛永13年(1636年)、乳井建定と共に長府藩の毛利秀元預けとなった。
後に祖父・綱則の末子・源八が後を継ぎ、兼平氏は再興された。
脚注
- ^ 兼平綱則末子
出典