六郷 政鑑(ろくごう まさかね/まさあきら[1])は、江戸時代末期の大名。出羽国本荘藩の第11代(最後)の藩主。官位は従五位下・兵庫頭。維新後、知藩事・子爵。
生涯
嘉永元年(1848年)10月3日、第10代藩主・六郷政殷の長男として誕生した。文久元年(1861年)6月5日、政殷の死去により家督を相続した。文久2年(1862年)12月1日、第14代将軍・徳川家茂に拝謁した。同年12月16日、従五位下・兵庫頭に叙任する。
慶応2年(1866年)4月15日、江戸の警備を命じられる。慶応4年(1868年)、一時的に奥羽越列藩同盟に参加したものの、脱退した。同年7月、新政府に与して、幕府方の庄内藩と戦うことになった。しかし、そもそも兵数に劣り武器も旧式などであったため、庄内藩の軍勢に敗れ、8月6日には本荘城に火を放って敗走した。政鑑らは久保田藩に避難した[2]。同年9月11日、奥羽鎮撫総督府から見舞金3,000両を賜る。同年9月下旬、明治政府の援軍によって反撃に転じ、本荘城を奪回した。明治2年(1869年)6月12日、戊辰戦争での功績を賞されて、永世1万石を賜った。
明治2年(1869年)6月22日、版籍奉還に伴い知藩事に就任した。明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県により知藩事を解任された。同年8月22日、東京に移る。明治17年(1884年)、子爵となる。晩年は故郷の本荘で過ごし、明治40年(1907年)7月23日、卒去。享年60。
家族
父母
妻
子女
- 六郷政賢(長男)
- 六郷賀子 - 田中国太郎の妻、生母は武子(正妻)
脚注
六郷氏 本荘藩11代藩主 (1861年 - 1871年) |
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