何 法倪(か ほうげい)は、中国東晋の穆帝司馬聃の皇后。本貫は廬江郡灊県。
生涯
父は散騎常侍の何準。母は孔氏。永和初年に朝廷の実権者であった何充の姪に当たる。
升平元年(357年)8月、当時15歳で元服を行った穆帝に嫁ぎ、皇后に立てられた。穆帝との間に子供はいなかった。升平5年(361年)9月、穆帝の崩御に伴い哀帝が即位すると、穆皇后[3]と称され永安宮に居住した。元興2年(403年)、桓玄の簒奪により司徒府に移された際、法倪は乗っていた輿を太廟前で止め、大きく号泣して桓玄の怒りを買ったという。
その後、零陵県君に降格され、安帝と共に巴陵に放逐された。元興3年(404年)、劉裕の挙兵により安帝が復位すると、建康に帰った。法倪は歴代皇帝の陵墓に拝謁しようとしたが、変乱が完全に平定されなかったため実現できなかった。同年7月、66歳で崩じた。章と諡された。
脚注
- ^ 『晋書』巻8, 穆帝紀 升平元年八月丁未条による。
- ^ 『晋書』巻10, 安帝紀 元興三年七月戊申条による。
- ^ 永安皇后とも
伝記資料