佐野 忠義(さの ただよし、1889年(明治22年)3月7日[1][2] - 1945年(昭和20年)7月3日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
静岡県出身[1][2][3]。佐野熊平の二男として生まれる[1]。1911年(明治44年)5月、陸軍士官学校(23期)を卒業し、同年12月、陸軍砲兵少尉任官し野砲兵第16連隊付となる[1][4]。1914年(大正3年)11月、 陸軍砲工学校高等科を卒業し[1]、1922年11月、陸軍大学校(34期)を卒業[1][3]。
陸士教官、イギリス出張、陸大教官、野砲第4連隊付、第5師団参謀、野砲第24連隊長、第12師団司令部付、野砲第20連隊長などを経て、日中戦争に第14師団参謀長として出動[1][2][3]。1938年(昭和13年)7月、陸軍少将に進級[1][3]。野戦重砲兵第4旅団長、陸軍野戦砲兵学校長を経て、1941年(昭和16年)3月、陸軍中将となった[1][2][3]。
太平洋戦争には、第38師団長として出征し[1]、ジャワ島攻略に従事[2]。その後は同師団長としてガダルカナル島の戦いに従事した。その後防衛総参謀長、参謀本部付を経て、第34軍司令官として漢口に赴任[1][2][3]。のち支那派遣軍総司令部付となった[1][2][3]。1945年7月、仙台で戦病死した[1]。
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 『日本陸海軍総合事典』第2版、71頁。
- ^ a b c d e f g h 『日本陸軍将官辞典』356頁。
- ^ a b c d e f g 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』292-293頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』289、292-293頁。
参考文献
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。