伊澤 平左衛門(いさわ[1] / いざわ[2] へいざえもん、1862年12月28日(文久2年11月8日[3])[注 1] - 1934年(昭和9年)6月9日[2])は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(2期)。貴族院多額納税者議員。
経歴
仙台に醸造家伊澤平藏(3代目)の長男に生まれる[1]。父の跡を継ぎ、1907年に仙台市会議員、その後、同参事会員などを務めた[1][2]。1915年に宮城貯蓄銀行、1919年に塩釜銀行の各頭取に、1920年に仙台ガス社長に就任した[1][2]。
同年の総選挙では立憲政友会から出馬を要請されたが、一族に反対された[1]。しかし、政友会本部は岡崎邦輔を仙台に派遣し、伊澤を説き伏せ、正式に立候補となった[4]。これにより、憲政会の村松亀一郎との争いになり、当選し、激しい選挙戦を制した[5]。1923年8月に仙台商業会議所会頭[2][4]、12月には七十七銀行頭取に就任した[4]。翌1924年の総選挙でも政友会から立候補したが、これに対して憲政会は仙台出身の実業家の荒井泰治を擁立、前回以上の激しい選挙戦となり、その結果伊澤が2448票で268票差で当選した[6]。1925年9月29日、貴族院多額納税者議員に就任し[7]、同日に衆議院議員を退職した[2][8]。
1927年、金融恐慌が起こり、宮城貯蓄銀行が経営危機に陥り、合わせて仙台興業銀行の両行を七十七銀行に合併[4]、1931年には五城銀行、東北実業銀行の2行と七十七銀行との合併を実現させた[4]。貴族院議員は1932年9月28日まで1期務めた[2]。1934年死去。
銅像
仙台市上杉の勝山公園には伊澤の銅像が設置されている。勝山公園はもともと伊澤氏の庭園で、1928年に仙台市に寄贈された。現在の銅像は3代目で、初代は太平洋戦争時の金属回収令によって供出、2代目のコンクリート製の像は悪戯により破壊されてしまった。
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勝山公園にある伊澤平左ェ門の像
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伊澤像背面の由緒書
親族
脚注
注釈
- ^ 『宮城県百科事典』38頁には「1858年(安政5)」と記載。
出典
参考文献