井上 房一郎(いのうえ ふさいちろう、1898年5月13日[1] - 1993年7月27日[1])は、日本の実業家。
ブルーノ・タウトの招聘や群馬交響楽団の創設などの文化活動、田中角栄の庇護者としても有名。愛称は「ふさいっちゃん」あるいは「フサさん」。
来歴
群馬県高崎市出身[2]。高崎観音の建立に力を尽くした井上工業社長・井上保三郎の長男として生まれる[1][2][注釈 1]。
旧制高崎中学校を経て、1914年に早稲田大学へ進学する[2]。同時に河合玉堂の塾に通い、山本鼎・北原白秋・片上伸らの知遇を得る[1]。早稲田大学はほどなく中退する[1]。1918年に帰郷し[2]、群馬初のレコードコンサートを開催したり、中学の同窓だった蠟山政道・住谷啓三郎と高崎新人会を結成し、吉野作造・大山郁夫を招いて講演会を開催したりした[2]。1920年代には高崎の民芸品を販売する店を軽井沢で始め、その店に通っていた建築家のアントニン・レーモンドと親友になっている[3]。
1923年に山本の勧めでフランスのパリに留学[2]。絵画や彫刻を学びながらアルベルト・ジャコメッティ兄弟と親交を結び、ポール・セザンヌに傾倒する。1929年に帰国[2]、井上工業に入社。1934年に来日したブルーノ・タウトに出会い、高崎に彼を招いて工芸品のデザインを委嘱した[2]。2人は銀座7丁目にミラテスという店舗を開き、作品を販売した[1]。1936年にタウトは離日し、2年後に死去する[2]。1938年、父・保三郎が死去すると井上工業社長に就任[2]。戦中は群馬県翼賛会壮年団長を務めた[1]。
戦後、「物がなくても人々の心に灯を点けられる運動であり、世界の言葉でもある」音楽に着目し、戦時中に活動していた音楽挺身隊や疎開していた音楽家を集めて、高崎市民オーケストラ(現在の群馬交響楽団)を設立[1]。指揮者に房一郎の仲人だった有島生馬の甥・山本直忠を招いた[1]。ほかに、群馬輸出工芸協会理事長・高崎紙工取締役・高崎毛織社長・高崎生コンクリート会長などの要職を歴任。高崎市文化賞(1974年)[1]・日本博物館協会博物館功労賞(1979年)[1]・日本文化デザイン賞(1982年)[1]・文化功労賞(1963年)[1]・国井喜太郎産業工芸賞などを受賞。1992年、群馬県立近代美術館に胸像が設置された[1]。没後、群馬県文化功績者特別表彰・高崎市功労者賞が贈られた[1]。
参考文献
- 熊倉浩靖『井上房一郎・人と功績』みやま文庫、2011年7月
関連資料
出典
注釈
- ^ 井上工業は田中角栄が政界入りする前に働いていた会社であり、後にロッキード事件で田中が世間より批判を受けても井上は支持者であり続けた。
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 熊倉浩靖「群馬地域文化の先覚者・井上房一郎」『文化経済学会〈日本〉論文集』第1997巻第3号、文化経済学会、1997年3月、157-161頁、doi:10.11195/jace1995.1997.157。
- ^ a b c d e f g h i j “近代高崎150年の精神 高崎人物風土記 - 井上 房一郎”. www.takasakiweb.jp. 高崎新聞. 2024年11月27日閲覧。
- ^ 山口昌男『内田魯庵山脈(下)』岩波現代文庫、2010年、99p頁。
外部リンク