五条庸子(ごじょう ようこ、1660年5月27日(万治3年4月19日) - 1683年9月25日(天和3年8月5日))は、江戸時代前期の女官である。霊元天皇の掌侍。正二位権大納言五条為庸の娘。母は右衛門尉南部宣行の娘。見性院宮(三宮、円満院)・一品尭延法親王(六宮[* 1]周慶親王、後に天台座主[* 2][1])・台嶺院宮の母[2]。五条家の本姓は菅原氏であるため、菅原庸子とも表記される。
経歴
幼名屋津子。十代半ばで出仕した当初(1675年8月25日(延宝3年7月5日)以前)は新内侍と呼ばれ、菅内侍あるいは菅内侍局を経て、1677年9月3日(延宝5年8月7日)以降は少将内侍と呼ばれた[* 3]。3皇子を産むが尭延法親王以外は夭逝。1683年死去。享年24。本能寺に葬られる。号宝樹院浄心[* 4]。
逸話
同腹の妹である経子も霊元天皇の後宮に入っており、中納言典侍の女房名を持っている。庸子を菅中納言局とする史料、経子を菅中納言局とする史料の両方が存在する。このため、史料上混同[* 5]を生じやすい。
脚注
注釈
- ^ 「六宮」と呼ばれているが、一般には第五皇子とされる。
- ^ 第189代。191代と193代にも再任。
- ^ 「始少将内侍」として後に「菅中納言局」とする史料もある。
- ^ 本能寺境内にある「菅中納言局庸子の石塔」には、戒名を「清光院殿浄心信敬尊儀」とする。ただし、石塔に付された説明板からは、同寺の所伝が五条庸子と五条経子の混同または同一視(1690年生の性応法親王を庸子が産んだ皇子とする等)が窺え、注意を要する。
- ^ 経子の産んだ正宮(作宮)について、「母中納言局 五条為庸女庸子」と注記された例がある。
出典
参考文献
関連項目