久米 義広(くめ よしひろ)は、戦国時代の武将。細川氏の家臣。阿波国芝原城主。三百貫。
略歴
天文21年(1552年)8月、一族とされ、娘婿の三好実休が、妻の兄である阿波守護・細川持隆を殺害したことに激怒し、実休を討つために天文22年(1553年)初めに野田山城主・野田内蔵助、英城主・仁木日向守高将、佐野須賀城主・佐野丹後守、蔵本城主・小倉重信らと共に軍事行動を起こした。
実休の妹婿・小笠原成助を攻撃するなどしたが、やがて三好実休が3,000兵を率いて進撃してきた(鑓場の戦い)。野田内蔵助が討たれるなど乱戦になり、義広らも討死した。
子の義昌が後を継いだ。
出典
- ^ a b c 真貝宣光著『芝原城主 久米安芸守義廣(上)』p12-17が引用する『犬伏久米系図』『芝原久米系図』より。
- ^ 一説に元長(長慶の父)も之長(長輝)の子とされている。
参照文献