中村 喜四郎(なかむら きしろう、1910年〈明治43年〉11月5日 - 1971年〈昭和46年〉12月21日)は、日本の教育者、政治家。位階は正五位。勲等は勲三等。
参議院議員(2期)、茨城県議会議員(5期)。
経歴
1910年(明治43年)、茨城県生まれ[1]。
茨城県師範学校、東京高等師範学校卒業[1]。郷里の小学校訓導、島根県師範学校教諭を務める[1]。
1940年(昭和15年)、東京文理科大学卒業[1]。中国に渡り、北京日本中学校教諭、北京工業大学教授を務める[1]。
1945年(昭和20年)、帰国。その後、茨城県立境高等学校教諭を務める[1]。戦前戦後を通じ、教育一筋の道を歩んだ。
1947年(昭和22年)、茨城県議会議員選挙に当選[1]。以来、連続五期十八年間にわたり、県議会議員として活動[1]。
1958年(昭和33年)、第54代茨城県議会議長[2]。
1965年(昭和40年)、第7回参議院議員通常選挙茨城県選挙区に自由民主党から出馬し、初当選。
1971年(昭和46年)、第9回参議院議員通常選挙再選。同年12月、参議院議員在職中に死去、61歳。死没日をもって勲三等旭日中綬章追贈、正七位から正五位に叙される[3]。
1972年(昭和47年)2月、補欠選挙が行われ、妻の登美が無所属で出馬し日本社会党の矢田部理、自由民主党の山口武平らを破り、当選した[4]。
1976年(昭和51年)12月、息子の伸が喜四郎の名を襲名(戸籍上の名前も改名)し、第34回衆議院議員総選挙に旧茨城3区から無所属で立候補し、当選した。
党役職としては自民党首都圏整備副委員長、茨城県連幹事長、同政調会長、国会では参議院研究学園都市特別委員長、文教委員長を歴任した[5]。
人物
剣道八段範士で茨城県学校剣道連盟会長を務め[5]、大松博文によれば「中村は剣道の達人であり、一面、硬骨漢としての性格の持ち主だったが、親しく接すると、親身にあふれ、人間味豊かだった。」という[1]。中村と剣道のつながりは、幼少のころからだが弱かったので、からだを鍛えるために剣道を始めたことが動機であった[1]。
家族・親族
脚注
参議院文教委員長 |
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第1回 (定数4) |
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↓:途中辞職、失職、在職中死去など、↑:補欠選挙で当選。 |