中宗(ちゅうそう)は、唐の第4代・第6代皇帝。諱は顕。
生涯
高宗の七男として生まれる。当初は周王に封じられたが、後に英王に改封された。同母兄である李弘の急死と李賢の廃立の後、代わって立太子され、高宗の死から7日後の弘道元年12月11日(684年1月3日)に即位した。中宗は翌年正月1日に改元を行い、元号を嗣聖と改めた。
即位後、生母である武則天に対抗すべく、韋皇后の外戚を頼った。具体的には韋后の父である韋玄貞(元貞)を侍中に任用する計画であったが、武則天が信任する裴炎の反対に遭う。計画を反対された中宗は怒りの余り、希望すれば韋元貞に天下を与えることも可能であると発言した。この発言を理由に、即位後わずか55日で廃位され、均州・房州に流された。
代わって同母弟の李旦(睿宗)が即位したが、載初元年(690年)に廃位され、武則天が自ら即位して武周時代を迎えた。その末期の聖暦2年(699年)、李顕は武則天により再び立太子され、神龍元年(705年)にクーデタで退位を余儀なくされた武則天は李顕に譲位した(唐の再興)。
中宗は韋后を非常に信任し、朝政に参加させ、その父を王に封じた。また韋后との間にもうけた安楽公主もまた朝政に参加させた。安楽公主は自ら皇太女、さらには皇帝となることを狙い、韋后もまた武則天に倣い帝位を求めた。
景龍4年(710年)、韋后の淫乱な行為が告発されると、韋后は追及を恐れ、安楽公主とともに中宗を毒殺し、末子李重茂(殤帝)が擁立された。しかしその1ヵ月後、李旦の息子の李隆基(玄宗)により韋后と安楽公主は殺害され、殤帝は廃位された。中宗は定陵に埋葬された。
宗室
后妃
- 親王妃:趙妃(贈和思皇后) - 趙瓌と常楽公主(中国語版)(高祖の娘)のあいだの娘
- 皇后:韋皇后 - 没後に廃位される
- 側室:楊貴妃
- 側室:于淑妃
- 側室:于徳妃
- 側室:昭容 上官婉児
- 側室:陳昭儀
- 側室:閻充儀
- 側室:陸充容
- 側室:崔修儀
- 生母不詳の子女
登場作品
- テレビドラマ
唐の第4代/第6代 皇帝(684年/705年 - 710年) |
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高祖 618–626 / 太宗 626–649 / 高宗 650–683 / 中宗 684 / 睿宗 684–690 / 中宗 (重祚) 705–710 / 殤帝 710 / 睿宗 (重祚) 710–712 / 玄宗 712–756 / 粛宗 756–762 / 代宗 762–779 / 徳宗 780–805 / 順宗 805 / 憲宗 806–820 / 穆宗 821–824 / 敬宗 824–826 / 文宗 826–840 / 武宗 840–846 / 宣宗 846–859 / 懿宗 859–873 / 僖宗 873–888 / 昭宗 888–904 / (徳王 900–901) / 哀帝 904–907
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