下内間木

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下内間木
東南側下内間木飛地
東南側下内間木飛地
下内間木の位置(埼玉県内)
下内間木
下内間木
下内間木の位置
北緯35度48分56.44秒 東経139度37分02.95秒 / 北緯35.8156778度 東経139.6174861度 / 35.8156778; 139.6174861
日本の旗 日本
都道府県 埼玉県
市町村 朝霞市
設置 1889年明治22年)4月1日
人口
2017年(平成29年)10月1日現在)[1]
 • 合計 246人
等時帯 UTC+9 (日本標準時)
郵便番号
351-0002[2]
市外局番 048[3]
ナンバープレート 所沢

下内間木(しもうちまぎ)は、埼玉県朝霞市大字。旧新座郡下内間木村郵便番号は351-0002[2]

地理

朝霞市の東南部に位置し、北部を上内間木荒川を跨いだ東部を戸田市重瀬内谷美女木、東南部は和光市新倉新河岸川を跨いだ南部を根岸西部を田島と接している。地区の西辺及び南辺は新河岸川の流路変更の影響もあり交錯しているだけでなく田島・根岸・台・新倉とともに飛地群を形成している。また、新河岸川の対岸、台とは内間木橋で接続していたが、2020年7月1日に廃止となった[4][5]朝霞水門の一部もまた台の飛地になっている。

西南部には約20ヘクタール朝霞調節池が存在する[6]。新河岸川を跨いだ和光市新倉6丁目とは人道橋で結ばれているが、この人道橋はジャパンエナジー朝霞油槽所石油パイプライン上に設置されたメンテナンス用設備であり、関係者以外が渡ることは出来ない。

地内は低湿沖積低地である。かつては短冊状の水田地帯だったが、1970年代以降は工業用地及び畑作用地が増えている[7]。工場の他残土置場、中間処分場最終処分場が散見される。また荒川沿いの河川敷朝霞パブリックゴルフ場コース南半分になっている[7]

地内を南北に市道が貫いている。最寄駅は東武東上線朝霞台駅JR武蔵野線北朝霞駅)になるが、約2 km離れている。また朝霞市内循環バス根岸台線が通っており、これを利用して朝霞台駅(北朝霞駅)に到達できる。地内には下内間木・下内間木榎戸の2つのバス停留所が設置されている。

河川

湖沼

歴史

1591年天正19年)5月17日、前年の小田原城落城を受けて、徳川家康から加藤源四郎正勝が内間木の他入間郡池辺村・大仙波村併せて300の土地を賜ったとされている[8][9]

元来水害の多いところだったが、1629年寛永6年)に旧入間川が荒川の本流になって後、水害の常襲区域となった[7]。たびたび水害に見舞われるため農民は土地の高いところに畑を作り、他は専ら散在野をはじめとする原野での採集を産業としていた[8][9]。三方を川に阻まれ、さらに原野の隔てがあったため近隣の村との交わりも疎く、貧しく質素な暮らしぶりだった[9]。外来者が殆ど無い上に貧しい村だったために家々は戸を閉ざすことが無かったと言われる[8]。また、家一軒ごとに舟を備え洪水の際には台地に逃げるようにしていたと言われる[10]

江戸時代に入って後御料所となり、さらに後化政期には代官川崎平右衛門の支配となっている[8][9]。江戸期には既に荒川の対岸とは地蔵河岸の渡しが存在し、航路が開かれていた[9]。『正保国絵図』に掲載されている「羽根倉渡三十五間」とはこの地蔵河岸の渡しの旧名と見られている[8][9]。この時代の小名として西口、散在、渦淵(うつけ)、おもせがある[8][9]。『武蔵田園簿』及び元禄郷帳において村高17石と記録されている[7]1627年(寛永4年)に江川太郎左衛門による検地を受けている[9]。『新編武蔵風土記稿』では家数70軒[9]

明治時代に入って下内間木村は1872年(明治5年)の大区小区制では第二大区第六小区、翌1873年(明治6年)の熊谷県設置以降は南第二大区第六小区に配置された[11]1876年(明治9年)の人口は335人[12]

1878年(明治11年)の郡区町村編制法において大区小区制は廃止されたが、1884年(明治17年)の連合戸長制の実施により、下内間木村は浜崎村宮戸村田島村上内間木村台村岡村根岸村と連合して浜崎村連合戸長役場を置いた。

1889年(明治22年)4月1日の町村制施行の際、下内間木村は上内間木村浜崎村宮戸村田島村と合併し新座郡内間木村となり、下内間木は内間木村の大字となった[11]。翌1890年(明治23年)の第一回帝国議会において「郡分合ニ関スル法案」が提出され、これを受けて埼玉県知事小松原英太郎内務省に対し「新座郡を北足立郡に統合することは全く問題ない」と上申したことが発端となり、内間木村を含む2町7ヶ村から北足立郡への統合を撤回するとともに、東京府北豊島郡への統合を求める請願運動が起きた。しかし、1896年(明治29年)3月29日には榑橋村及び新倉村の一部を除いて北足立郡への統合が行われ、下内間木は北足立郡内間木村の大字となった[11][13]

1910年(明治43年)8月11日の荒川大洪水では家々は軒先まで水に浸かり、人畜・家屋・田畑に甚大な損害を受けた[7]。これを受けて荒川は大規模な改修工事を行い、流路の変更が行われた。その結果、1923年(大正13年)工事は完成したが、重瀬地区(字重瀬・原通・北地蔵木・南地蔵木・山室・有毛・渦・奥渦・野中)は荒川の東側に分断され、小学校に通う児童が風雨の為渡船の出ない日は秋ヶ瀬橋を迂回しなければならないなど不便が多かった[14]

1944年(昭和19年)2月11日の戦時町村合併促進法により、内間木村は志木町、入間郡宗岡村水谷村と合併し、志紀町となった際、重瀬地区は北足立郡美笹村に編入された。重瀬地区を除いた部分は志紀町大字下内間木となった。この戦時合併は1948年(昭和23年)4月1日に解体され、元の内間木村下内間木に戻った。

1954年(昭和29年)には重瀬地区の全34戸及び船上生活3戸[15]の移住が完了し、重瀬地区は無人となった。

1955年(昭和30年)4月1日、内間木村は朝霞町と合併し、北足立郡朝霞町大字下内間木となった。

1967年(昭和42年)3月15日には市制施行により朝霞市大字下内間木となった。1983年8月1日には一部が田島1・2丁目に吸収された。

1996年平成8年)には朝霞水門が完成、2006年には朝霞調節池が完成し運用開始され、水害の危険性を抑えている[6]

地名の由来

内間木の名は江戸名所図会によれば武蔵五牧のひとつ立野の一部を占めることから内牧の転訛で、河川以内の牧野を示す説[16]の他、特定の一族内部の牧とする説もある[7]。頭につけられた「下」は、上内間木に比べて河川の下流にあることを示す。

沿革

  • 1591年天正19年)5月17日 - 加藤源四郎正勝が、内間木・池辺・大仙波の所領300石を賜る。
  • 1871年明治4年)12月25日 - 廃藩置県により、入間県に所属、入間県新座郡下内間木村となる。
  • 1872年(明治5年)10月10日 - 大区小区制の施行により第二大区第六小区に属する。
  • 1873年(明治6年)6月15日 - 入間県が群馬県と合併し、熊谷県となる。大区小区は南第二大区第六小区に属する。
  • 1876年(明治9年)8月21日 - 第2次府県統合により、埼玉県の管轄となる。
  • 1884年(明治17年) - 連合戸長制の実施により、浜崎村・宮戸村・田島村・上内間木村・台村・岡村・根岸村と連合して浜崎村連合戸長役場を設置する。
  • 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、下内間木村は浜崎村・宮戸村・田島村・上内間木村と合併し新座郡内間木村となり、新座郡内間木村大字下内間木となる。
  • 1896年(明治29年)3月29日 - 新座郡が北足立郡に統合され、北足立郡内間木村大字下内間木となる。
  • 1923年大正13年) - 荒川大改修が完成し、重瀬地区が荒川東岸に分離される。
  • 1944年昭和19年)2月11日 - 戦時町村合併促進法により内間木村が志木町、宗岡村、水谷村と合併し、志紀町となり、北足立郡志紀町大字下内間木となる。重瀬地区が美笹村(現・戸田市)に移る。
  • 1948年(昭和23年)4月1日 - 合併が解消され内間木村は再置、北足立郡内間木村大字下内間木となる。
  • 1955年(昭和30年)4月1日 - 内間木村が朝霞町と合併、北足立郡朝霞町大字下内間木となる。
  • 1967年(昭和42年)3月15日 - 市制施行により朝霞市大字下内間木となる。
  • 1983年(昭和58年)8月1日 - 一部が大字田島・大字根岸の各一部と併せ住居表示を田島1・2丁目とする。

施設

世帯数と人口

2017年(平成29年)10月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]

大字 世帯数 人口
下内間木 112世帯 246人

小・中学校の学区

市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[18]

番地 小学校 中学校
113〜121番地 朝霞市立朝霞第九小学校 朝霞市立朝霞第二中学校
その他 朝霞市立朝霞第三小学校 朝霞市立朝霞第五中学校

交通

地内に鉄道は敷設されていない。

バス

脚注

  1. ^ a b 平成29年度年度別人口統計”. 朝霞市 (2017年10月5日). 2017年10月10日閲覧。
  2. ^ a b 郵便番号”. 日本郵便. 2017年10月10日閲覧。
  3. ^ 市外局番の一覧”. 総務省. 2017年5月29日閲覧。
  4. ^ a b “内間木橋通行止めのお知らせ” (PDF). 広報あさか (朝霞市役所): p. 17. (2020年6月1日). https://www.city.asaka.lg.jp/uploaded/attachment/62647.pdf 2020年6月14日閲覧。 
  5. ^ a b 内間木橋廃止に伴う通行止めのお知らせ”. 朝霞市役所 (2020年7月1日). 2020年12月23日閲覧。
  6. ^ a b 総合治水(国土交通省・関東地方整備局荒川上流河川事務所HP)、2009-11-05閲覧。
  7. ^ a b c d e f 『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』角川書店、1980年7月。
  8. ^ a b c d e f g 新編武蔵風土記稿巻之百三十二』、「大日本地誌大系(八)新編武蔵風土記稿 第八巻」雄山閣、1957年9月再版所収。
  9. ^ a b c d e f g h i j k l 新編武蔵風土記稿 1929, pp. 79–81
  10. ^ 災害伝承データベース(総務省HP)、2009-11-12閲覧。
  11. ^ a b c 朝霞市教育委員会社会教育部市史編さん室『朝霞市史普及版 あさかの歴史』朝霞市、1997年3月21日、pp144-148。
  12. ^ 新編埼玉県史 別編5 統計 付録『町村編制区域表他』埼玉県、1981年3月。
  13. ^ 神山健吉・井上國夫・高橋長次『しきふるさと史話』埼玉県志木市教育委員会、1994年11月30日、pp122-123
  14. ^ 森春男『旧内間木地区歴史散歩』、朝霞市郷土史研究会「郷土史朝霞」所収、1983年4月1日、pp7-10。
  15. ^ 埼玉県県民部県史編さん室『荒川 人文II -荒川総合調査報告書3-』埼玉県、1988年3月、pp324-330。なお、2世帯が2回に分けて別の場所に移転した1戸は2戸と数えられている。
  16. ^ 吉田東伍『増補大日本地名辞書 第六巻 坂東』冨山房、1970年6月増補(1903年10月初版)p425。
  17. ^ 『朝霞市彫刻調査報告書』朝霞市教育委員会、1995年3月、p82。
  18. ^ 通学区域”. 朝霞市 (2012年10月12日). 2017年10月6日閲覧。

参考文献

  • 蘆田伊人編 編「巻ノ132新座郡ノ4下内間木村」『大日本地誌大系』 第11巻 新編武蔵風土記稿7、雄山閣、1929年8月。NDLJP:1214877/46 
  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 11 埼玉県(増補版)』角川書店、1980年7月8日。ISBN 4040011104 

関連項目

外部リンク