上野 英三郎(うえの えいざぶろう[1][2]、うえの ひでさぶろう[3]、1872年1月19日〈明治4年12月10日〉 - 1925年〈大正14年〉5月21日)は、日本の農学者[1]。農学博士[4]。東京帝国大学教授[4]。日本の農業土木、農業工学の創始者である[3]。また東京都渋谷駅前に銅像が建つ忠犬ハチ公の飼い主としても知られる[1]。
人物
三重県一志郡本村(後の久居市、現在の津市久居元町)出身。上野六兵衛の三男[2][4]。1887年(明治20年)に東京農林学校に入り、1890年(明治23年)に農科大学予科に編入され、1892年(明治25年)に同大学農学科に転じ[2]、1895年(明治28年)7月、東京帝国大学農科大学を卒業する[5]。農学士の称号を受け直に大学院に入り農業土木及び農具に関する事項を研究する[2]。1900年(明治33年)7月10日大学院満了。同年8月東京帝国大学農科大学講師。1902年(明治35年)3月農科大学助教授。
1899年(明治32年)、政府は「耕地整理法」を制定し、その翌年より耕地整理事業が着工されることになったが、当時は農業土木学の専門技術者が皆無の状態で、農業土木を研究していた唯一の学者が上野であった。そこで、上野は耕地整理の研究を進めながら、各地へ出かけて講演や技術指導を続けた。また、1905年(明治38年)には農商務省委託の農業土木技術員養成官の任務に就き、その後20年間に亙って3,000人を越える技術者の育成に努めた。上野から指導を受けた技術者は、1923年(大正12年)の関東大震災後の帝都復興事業において重要な役割を占めた。
1911年(明治44年)には農科大学教授に任ぜられ、農業工学講座を担当する。その後、農学科に農業土木専修コース(後の東京大学農業工学科、現在の東京大学生物・環境工学専修)を設立。当時の農学部は駒場に在った[注釈 1]。
1924年(大正13年)、上野は念願であった秋田犬を購入しハチと名づけた。しかし翌大正14年5月、上野は大学で講義中に脳出血で倒れ急逝、53歳没。5月25日には通夜が執り行われた。愛犬ハチは帰らぬ上野を10年近く渋谷駅で待ち続けた[注釈 2]。
その業績を記念し、農業土木の発展に尽くした者には毎年農業農村工学会により「上野賞」が贈られる。東京都港区青山霊園には上野の墓とハチ公の碑が在る。三重県津市久居小戸木町の小戸木神社には上野博士の記念碑が在る。また同市久居元町の法専寺には墓碑が建つ。住所は東京府豊多摩郡渋谷町大字中渋谷[4]。
東京大学農学部農学資料館には、忠犬ハチ公の臓器や上野の胸像がある[6]。「ハチ公と上野英三郎博士の像を東大に作る会[注釈 3]」が、「ハチ公と上野英三郎博士像」を弥生キャンパス農学部アネックス前に建立、ハチ公没後80年にあたる2015年3月8日、除幕式が行われた[7] 。
栄典
家族・親族
- 上野家
- 親戚
- 太田茂兵衛(太田商店代表社員) - 上野の叔母よねは太田茂兵衛の母[4]。
- 河村清兵衛(醤油醸造業)
• ハチ(秋田犬)
著書
共著
脚注
注釈
- ^ 大正12年の関東大震災を期に、それまで駒場にあった東京大学農学部は第一高等学校と敷地を交換し、昭和10年7月に現在に至る弥生キャンパスに移転した。
- ^ 「忠犬ハチ公」として世間に知られるのは上野が亡くなって7年後、ハチ公像の建立は博士の没後9年のことである。
- ^ 愛称「東大ハチ公物語」、会長は古谷研 東京大学大学院農学生命科学研究科・農学部長
出典
参考文献
- 『日本現今人名辞典』日本現今人名辞典発行所、1903年。
- 『東京帝国大学一覧 明治28-29年』東京帝国大学、1886-1912年。
- 人事興信所編『人事興信録 第6版』人事興信所、1921年。
外部リンク
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