上毛野 稚子(かみつけの の わかこ、生没年不詳)は、飛鳥時代の豪族。姓は君。
経歴
上毛野君氏については、『日本書紀』巻第五にある、崇神天皇の長男の豊城入彦命の夢の話[1]や、巻第七にあるその孫の彦狭嶋王の東山道派遣の話[2]、息子の御諸別王の東国経営の話[2]などが知られている。『新撰姓氏録』左京皇別・右京皇別にも同様の記述があり、下毛野氏と同祖とある。
上毛野稚子の名前が登場するのは、『書紀』巻第二十七によると、天智天皇2年(663年)3月に、
前将軍
(まへのいくさのきみ=第一軍の将軍)上毛野君稚子
(かみつけの の きみ わかこ)、
間人連大蓋(はしひと の むらじ おほふた)、中将軍
(そひのいくさのきみ=第二軍の将軍)巨勢神前臣訳語(こせのかむさき の おみ をさ)・
三輪君根麻呂(みわ の きみ ねまろ)・後将軍
(しりへのいくさのきみ=大三軍の将軍)阿倍引田臣比羅夫(あへのひけた の おみ ひらぶ)、大宅臣鎌柄
(おほやけ の おみ かまつか)を遣
(つかは)して、二万七千人
(ふたよろづあまりななちたり)を率
(ゐ)て、
新羅(しらぎ)を打たしむ。
[3]
とあるのが最初である。続けて6月に、稚子ら全将軍の軍団が
新羅の沙鼻岐奴江
(さびきぬえ)、二つの城
(さし)を取る。
[4]
という戦果をあげたことが記されている。この「沙鼻岐奴江」であるが、「沙鼻・岐奴江」と「沙鼻岐・奴江」のどこで区切るのかが判明していない。現在の慶尚北道尚州市にあたる「沙比」とすると、西から新羅に侵入したことになり、慶尚南道三嘉にあたる「三岐」とすると、南から侵入したことになる。
白村江での唐・新羅連合軍との決戦は、その2ヶ月後であった[5]。その際に、上毛野稚子がどのような働きをしたのか、そしてどうなったのかは、不明である。
天武天皇13年(684年)11月、八色の姓の制定により、上毛野君氏は一族の上毛野三千の労なども含め、長年朝廷に尽くしてきたことにより「朝臣」の姓を賜与されている[6]。
脚注
- ^ 『日本書紀』崇神天皇48年1月10日条
- ^ a b 『日本書紀』景行天皇55年2月5日条
- ^ 『日本書紀』天智天皇2年3月条
- ^ 『日本書紀』天智天皇2年6月条
- ^ 『日本書紀』天智天皇2年8月27日条、28日条
- ^ 『日本書紀』天武天皇13年11月1日条
参考文献
関連項目