上シレジア攻勢(ドイツ語: Oberschlesische Operation ロシア語: Верхне-Силезская наступательная операция)は、1945年3月15日から3月31日にかけて、ナチス・ドイツ占領下のポーランド南部のチェコスロバキアに接するオーバーシュレージエン(上シレジア)へ向けて行われたソビエト赤軍による攻勢である。
以下よりドイツ語の地名を使用し、()の中に現在の地名を併記する。
概要
ソビエト赤軍によるオーバーシュレージエン(波 : グルヌィ・シロンスク)への攻勢は、1945年の東部戦線において戦略的に重要な作戦であった。この攻勢は、オーバーシュレージエンにある膨大な産業物資と天然資源を獲得することを目的とし、イワン・コーネフ元帥率いる第1ウクライナ戦線の部隊がその作戦を担った。ドイツ軍にとって、この地域は重要拠点であったため、防衛を担った中央軍集団にはかなりの兵力が提供された。この地域における戦闘は、1月中旬から1945年5月8日までのヨーロッパでの戦争が終わるまで続いた。
攻勢前の状況
1944年のバグラチオン作戦の終了後、赤軍の戦線はバルト海沿岸のリガからワルシャワを経てヴィスワ川、カルパティア山脈に至るポーランドのほぼ中央に及んでいた。しかし、1944年末の時点で、開戦前のドイツ領のほとんどは、まだ第三帝国の支配下にあり、1945年1月12日、赤軍はヴィスワ・オーデルと西カルパティアへの更なる攻勢を開始した。(ヴィスワ=オーデル攻勢)
シュレージエン(シレジア)の前線は、1月の攻勢の後に確立されており、その間、コーネフの軍はフリードリヒ・シュルツ(en)歩兵大将麾下のドイツ第17軍を、カトヴィッツ周辺のオーバーシュレージエンの工業地帯から掃討していた。2月に行われたニーダーシュレージエン(下シレジア)への攻勢作戦では、コーネフ軍の北翼がさらに前進し、ナイセ川まで迫っていた。しかし、南と東部のズデーテン山地周辺には、第17軍がまだ戦線を維持しており、赤軍のベルリン進攻に対する脅威となっていた。
氈鹿作戦(Operation Gemse) : ラウバンとストリエガウにおけるドイツ軍の反攻
中央軍集団司令官フェルディナント・シェルナー元帥は、パーヴェル・ルイバルコ装甲戦車兵元帥麾下の第3親衛戦車軍(ru)の先鋒部隊に対する反撃のため、2月中に第17軍への増援を開始した。第56装甲軍団(de)と第39装甲軍団(de)はヴァルター・ネーリング装甲兵大将の指揮下に置かれ、3月1日より、北部の第17装甲師団(de)と総統擲弾兵師団(en)、南部の第8装甲師団(de)の両方面からの攻撃を開始した[2]。
第3親衛戦車軍は不意を突かれたが、3月3日までドイツ軍はナウムブルク(ノボグロジェツ)方面からの赤軍の反撃に脅かされており、ネーリング大将は、小規模な包囲作戦を行った。ルイバルコの展開していた赤軍部隊は壊滅を避けるためにラウバン(ルバン)から撤退し、町はドイツ軍の第6国民擲弾兵師団(de)により奪還された。3月4日までに多数の赤軍部隊は脱出したが、4日後には、包囲されていた部隊は壊滅した(シュレージエンでの戦闘は「無慈悲」と評されており、ドイツ軍は捕虜を取らなかった)[3]。局地的な勝利にもかかわらず、ラウバンの町の奪還はドイツ側のプロパガンダでは大戦果と報され、3月9日には国民啓蒙・宣伝相のヨーゼフ・ゲッベルスがラウバンの町を訪れ、激励の演説を行った。
シェルナーは南東のストリエガウ(ストシェゴム)への更なる攻撃を進め、3月9日に開始した。二重包囲を行うには十分な兵力ではなかったが、ドイツ軍は3月11日から12日の夜間に赤軍の戦線に侵入し、第5親衛軍(ru)の一部撃退に成功した[4]。シェルナーは赤軍に包囲されたブレスラウの町を奪還するために、ネーリングの部隊をラウバンから鉄道で北上させ、より本格的な北部への攻勢を組織し始めたが、コーネフはシュレージエンでの主導権を取り戻すために断固たる行動に出た。コーネフは第4戦車軍を戦線の北側からグロットカウ(グロトクフ)付近に再配置させ、オーバーシュレージエンへの大規模な攻勢の先陣を切って敵左翼を無力化し、ラティボウ(ラチブシュ)周辺の占領に成功した。
赤軍による攻勢
コーネフは3月15日に大規模な攻勢を開始した。第4戦車軍はオッペルン(オポーレ)の西部でドイツ軍の戦線を突破し、そのまま南下してノイシュタット(プルドニク)を目指した。第4戦車軍の攻撃は、ナイセ(ニサ)の占領を目標に展開された。オッペルンの南東では、第59軍と第60軍が進撃し、第59軍は西へ移動して第4戦車軍と合流した。ドイツ第11軍団(de)はオッペルン付近の戦線を保持していたが、包囲の危機に晒されていた。
南部では、第38軍がモラヴィア高地を背にして防衛しているゴットハルト・ハインリツィ上級大将麾下の第59軍団(en)を攻撃した。ハインリツィ上級大将は、3月10日に小規模な撤退を命じており、被害を最小限に抑えることに成功し、第59軍団の戦線は堅固なものとなっていた[5]。
オッペルンでの包囲戦
オッペルン付近に配置されていた第51装甲軍団も撤退を開始したが、武装親衛隊の第20SS武装擲弾兵師団と第168歩兵師団(de)は、ノイシュタット付近で第4戦車軍と第59軍の攻撃によって壊滅に瀕した。22日までに赤軍第59軍と第21軍の両部隊は、オッペルンの包囲網「魔女の大釜」(ドイツ語:ケッセル)の突破に成功する。赤軍に包囲されていたドイツ軍のうち15,000人は戦死、15,000人が捕虜となった[6]。
コーネフは3月24日にさらなる攻撃を開始し、ラティボウとカトシェール(キエトシュ)(ドイツ語版)を奪取し、3月31日に攻勢の完了を宣言した[7]。
作戦の結果
赤軍によるオーバーシュレージエンへの攻勢は、ベルリンへの進撃に備えた、コーネフの担当する左翼方面の戦線の確保に成功し、ドイツ軍中央軍集団による脅威を取り除いた。しかし、シュレージエンの戦線は、シェルナーの部隊が完全に降伏するまでは、ほとんど膠着状態にあったという。
両軍の戦力
赤軍
ドイツ軍
(1944年12月31日現在[8])部隊は状況に応じて軍団間を移動する傾向があった。
脚注
- ^ See Grigoriy Krivosheev, at soldat.ru
- ^ Duffy, p. 139.
- ^ Beevor, p. 127.
- ^ Duffy, p. 141.
- ^ Duffy, p. 147.
- ^ Beevor, p. 129.
- ^ Duffy, p. 146.
- ^ Gunter, p. 293.
- ^ Gunter p. 21.
- ^ Gunter p. 255.
- ^ Gunter p. 222.
参考文献
- Beevor, A. Berlin: The Downfall 1945, Penguin Books, 2002, ISBN 0-670-88695-5
- Duffy, C. Red Storm on the Reich: The Soviet March on Germany, 1945, Routledge, 1991, ISBN 0-415-22829-8.
- David M. Glantz, The Soviet-German War 1941–45: Myths and Realities: A Survey Essay.
- Georg Gunter, Last Laurels: The German Defence of Upper Silesia, Helion & Company, 2002, ISBN 1-874622-65-5.
- Georg Gunter, Duncan Rogers, Last Laurels: The German Defence of Upper Silesia, January–May 1945, Helion & Co., 2002, ISBN 1-874622-65-5.
外部リンク