三浦 昇 (みうら のぼる、1961年9月2日[1] - ) は、青森県八戸市出身[2]の元オートバイ・ロードレーサー。ヨシムラやホンダ・ワークス契約ライダーとして全日本ロードレース選手権に参戦した。1988年TT-フォーミュラ世界選手権SUGOラウンド優勝者。全日本ロードレース選手権A級通算4勝。
経歴
少年時代
青森での少年時代からオートバイ雑誌で見たグランプリ・ライダーや四輪のF1ドライバーにあこがれ、「和田選手や清原選手、世界GPで走ってる片山選手の記事をよく読んでいた。早くレースをやりたいと思っていた。」という高校生だった。高校を卒業するとすぐに、レースをやり始めたいという情熱だけで単身青森を出て鈴鹿へと移る。当時を「世界GP500で走りたいという夢しか考えてなかったから、ヨーロッパのGPに行くことを考えたら青森から鈴鹿なんて何でもないことだった。」と回想している。
デビュー
三浦同様に故郷を後にしてレースに出たいという共通の夢を持った友人が鈴鹿に何人か出来、16歳でレースデビュー。1982年全日本ロードレース・ノービス250ccクラスで5回の優勝を挙げ年間チャンピオンを獲得。出すラップタイムの速さからスーパーノービスと呼ばれるようになり、すぐA級でも通用すると評された[2]。このノービス250では八代俊二と同じレースを走っており、八代は「三浦君にはレースで仕事を休むことに理解のある鈴鹿のプレス工場を紹介してもらい、そこで一緒に働いていたことがある。」と自身のYouTubeチャンネルで述べている[3]。
1983年は国際B級250ccクラスで坂口彰、片山信二と争い、最多勝利者としてシーズンをリード。チャンピオン最有力で迎えた最終戦日本GPで電気系のマシントラブルが発生、このノーポイントが響きランキング2位となった(チャンピオンはチームメイトの坂口が獲得)。この年の250ccはA/B級混走で行われたが、第6戦鈴鹿ではB級の三浦がコースレコードでのポールポジション獲得、決勝レースもA級トップライダーを相手に独走優勝とその速さは話題をさらった[4]。
ヨシムラ時代 / HRC入り
1984年、A級初年度にヨシムラ入り、TT F1とF3クラスにダブル参戦。ベテランを蹴散らす勢いの勝つか転倒かの熱いレースを見せ、TT F3ランキング3位に入った[2]。同年シーズン終了後、翌年からのホンダワークス・HRC入りが発表された。HRC取締役の福井威夫は、「非常に若い可能性を持っている。いろんなカテゴリーに出てもらおうと思ってます。ホンダが本格的に始めるF3かF1をメインに、500ccにも出てもらうかも。」と期待を述べた[5]。
HRC時代
1985年、ホンダワークスよりTT F1(750cc)とF3(400cc)に参戦が決まり、F3クラスでの初戦となった第2戦筑波ではRVF400デビュー戦でポールポジションを奪う。しかしその直後、転倒した際に左足を骨折。このダメージが大きく、手術とリハビリのため以後入退院を繰り返し、約2年の戦線離脱を余儀なくされる。1987年後半に本格復帰、第11戦鈴鹿でTT F1クラスを制し復帰後初優勝を挙げる。1988年全日本TT-F1ではシリーズランキング2位を獲得し、菅生で開催されたTTフォーミュラ世界選手権日本ラウンドでは、同シリーズにレギュラー参戦する海外のライダーを抑えて世界選手権勝者となった。
1989年からはTT F1に参戦しながら、チームのメインスポンサー「ファミリーマート」が主催していた4輪ジュニア・フォーミュラ大会「ファミリーマートカップ」にドライバーとして出場した[6]。
1990年代以降
HRCとの契約が終了し、全日本ロードへのレギュラー参戦を終えた後は、東南アジアでのロードレースにカワサキのマシンで参戦し、賞金稼ぎをしていた時期があると述べている[7]。元々強い関心を持っていた4輪レースにも参戦し、1991年N1耐久に福山英朗とのチームで参戦、1996年の全日本F3選手権にダラーラ・F393でスポット参戦歴がある[8]。
2000年代に入り、自身のSNSにてインドネシア・バリ島で飲食店ビジネスをしている様子を公開。2018年9月、バリ島で経営していた日本食レストランを売却したことを報告[9]。その後日本に帰国し、三木市内での古民家カフェ開業準備を公開[10]。
レース関連では、2018年に丸山浩の主宰するイベントに参加、約30年ぶりにオートバイに乗りサーキット走行する姿を見せた。この際にホンダ・RC213V-Sに試乗し、初めてキャブレター式ではないインジェクション仕様のマシンを経験した[7]。
レース戦歴
全日本ロードレース選手権
鈴鹿8時間耐久ロードレース
- 1988年はエントリーしていたが、直前で黒川武彦に交代し欠場。
脚注