三山(みやま)は、京都府京丹後市丹後町宇川地域の廃村地名。1974年(昭和49年)に当時居住していた全12戸が集団で京丹後市丹後町三宅に移住することなり廃村となった。住民が移転の手配を当時の丹後町と直接相談・交渉を重ね、集団移転を成功させた。2004年(平成16年)京丹後市移行後の大字は「丹後町三山」。
地理
鞍内の東南方、宇川中流の右岸で、その支流である三山川沿いの谷間、標高150メートル前後に位置した[1]。関西電力小脇水力発電所から約300メートル東へ遡った渓谷にあり[1]、丹後町竹久僧の北、碇高原の手前に位置する[2]。
集落内を東から西へと三山川が流れる[3][4]。三山川の川幅はおおよそ12メートル、平均水位は30センチメートルで、最高水位120センチメートル、最低水位20センチメートル[5]。流路延長は4,200メートルあり、流域面積は0.45平方キロメートル[5]。
歴史
沿革
文献にみえる三山の記録は、徳川2代将軍秀忠の時代に『宮津旧記』に記載された宮津藩主阿部対馬守知行村々草高帳に、「三山村 百石七斗弐升」とあるのが知られている最古と思われる[6]。
1968年(明治元年)、他10村とともに上宇川村に統合された[7]。
1896年(明治29年)、小脇・竹久僧とともに3集落で学区を組織し、三山に上宇川第二尋常小学校が開校する[8][9]。しかし1904年(明治37年)にはさらに鞍内集落を加えた4集落で校区を再編し、1905年(明治38年)には虎杖小学校の場所に新築した分校校舎に通うこととなった[10]。
1957年(昭和32年)、三山に電話架設が行われる[11]。
1959年(昭和34年)11月、国庫の補助を受け、伏流水の自然流下で送水する簡易水道施設が竣工された[12]。
1963年(昭和38年)の三八豪雪では約6メートルの積雪を記録し、自衛隊の救助を受けた[13]。この折には虎杖分校が豪雪で倒壊寸前となったため、三山の児童は集落内で分散授業を受けた[13]。
1964年(昭和39年)、遠下とともにテレビ共同受信施設組合を結成する[14]。
ガチャマン景気と呼ばれた丹後織物産業全盛の頃である1965年(昭和40年)、手機が導入され、集落内で機業に従事することが可能となった[15]。
1969年(昭和44年)、途絶えていた盆踊りが復活する[16]。
1971年(昭和46年)、三山共同作業所が完成する[17]。
1974年(昭和49年)、残っていた12戸全戸で、丹後町三宅に造営された三宅団地へ集団移住(挙家離村)した[18][19]。
世帯数と人口の変動
1884年(明治17年)には39戸、1888年(明治21年)から1896年(明治29年)には38戸があり、明治期には安定した集落であったと思われる。1960年(昭和35年)に31戸139人の人口を記録するが、1963年(昭和38年)の三八豪雪を機に離村が急増し、その後だんだんと世帯数が減少していった[3][20]
人口の変遷
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1930年(昭和5年)
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147人 |
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1955年(昭和30年)
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139人 |
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1965年(昭和40年)
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92人 |
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1970年(昭和45年)
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57人 |
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1974年(昭和49年)
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46人 |
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1975年(昭和50年)
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0人 |
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世帯数の変遷
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1884年(明治17年)
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39戸 |
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1888年(明治21年)
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38戸 |
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1896年(明治29年)
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38戸 |
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1930年(昭和5年)
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30戸 |
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1955年(昭和30年)
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31戸 |
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1960年(昭和35年)
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31戸 |
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1965年(昭和40年)
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17戸 |
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1970年(昭和45年)
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13戸 |
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1974年(昭和49年)
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12戸 |
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1975年(昭和50年)
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0戸 |
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暮らし
主な生業は稲作であったが、田の多くは三山川の上流東方直線距離2.5キロメートルの碇地区にあり[4]、海抜400メートルの高原まで朝5時半に自宅を出て帰宅は夜7時という生活だった[21]。積雪が多く、冬は男性は杜氏として10月から翌4月の半年間、京都伏見、奈良、名古屋、島根方面へ出稼ぎに出るものが多かったため、女性ばかりの生活であり、小学校に通学することも大変であった[3][4]。
離村
1963年(昭和38年)の豪雪(世帯数26戸[4])を経て、1軒、1軒と離村が始まり、1974年(昭和49年)に当時残った12戸が集団で京丹後市丹後町三宅に移住することなった。その背景は、三山(及び小脇、竹久僧地区)の田が多くある碇地区が、京都府営の碇高原総合牧場として開発・造成されたことによる。住民が碇で所有していた土地(農地)を無償譲渡するかわりに、移転の手配を当時の丹後町に依頼し、相談や交渉を重ねて、住宅を建設する補助金も支出された[3]。最終的に1974年(昭和49年)に、京都府の碇高原総合牧場建設に伴う町の集団離村対策を活用し、全戸が三宅に集団移住した[1]。
移転先の丹後町三宅は、三山より東方直線距離6キロメートルの地で[4]、もともと近くに土地を持っている人がいて利便性が高い、借りて耕作できる田があったことなどで選ばれた[3]。三宅にて造成された宅地は総面積1万平方メートルで18戸、配置は抽選で決め、家屋の間取りもそれぞれに考えて建てた[4][22]。
集団離村後の1975年(昭和50年)に記念碑(石碑)を建立。記念誌はないが、8ミリビデオで集落の様子を撮影した[23]。
脚注
- ^ a b c 竹内理三『角川日本地名大辞典26 京都府下巻』角川書店、1982年、640頁。
- ^ 『丹後町史』丹後町、1976年、249頁。
- ^ a b c d e 小山元孝『消えない村』林直樹、2015年12月25日、47頁。
- ^ a b c d e f 京丹後市史編さん委員会『京丹後市の民俗』京丹後市長 中山泰、2014年3月30日、242頁。
- ^ a b 『丹後町史』丹後町、1976年、15頁。
- ^ 『丹後町史』丹後町、1976年、250頁。
- ^ 『丹後町史』丹後町、1976年、187頁。
- ^ 『川と人とふるさとと うかわ』上宇川地区公民館、1989年、17頁。
- ^ 『丹後町史』丹後町、1976年、253頁。
- ^ 『川と人とふるさとと うかわ』上宇川地区公民館、1989年、18頁。
- ^ 『川と人とふるさとと うかわ』上宇川地区公民館、1989年、76頁。
- ^ 『丹後町史』丹後町、1976年、376頁。
- ^ a b 『川と人とふるさとと うかわ』上宇川地区公民館、1989年、80頁。
- ^ 『川と人とふるさとと うかわ』上宇川地区公民館、1989年、81頁。
- ^ 『川と人とふるさとと うかわ』上宇川地区公民館、1989年、83頁。
- ^ 『川と人とふるさとと うかわ』上宇川地区公民館、1989年、85頁。
- ^ 『川と人とふるさとと うかわ』上宇川地区公民館、1989年、86頁。
- ^ 『川と人とふるさとと うかわ』上宇川地区公民館、1989年、88頁。
- ^ 『丹後町史』丹後町、1976年、290頁。
- ^ 東世津子、織戸昭徳(絵)『小脇の子安地蔵さん』あまのはしだて出版、1997年7月、47頁。
- ^ 池井保『亡び村の子らと生きて』あゆみ出版、1977年11月10日、65頁。
- ^ 小山元孝『消えない村』林直樹、2015年12月25日、50頁。
- ^ 小山元孝『消えない村』林直樹、2015年12月25日、48頁。
参考文献
- 小山元孝『消えない村』林直樹、2015年
- 京丹後市史編さん委員会『京丹後市の民俗』京丹後市長 中山泰、2014年
- 東世津子、織戸昭徳(絵)『小脇の子安地蔵さん』あまのはしだて出版、1997年
- 池井保『亡び村の子らと生きて』あゆみ出版、1977年
- 『丹後町史』丹後町、1976年
- 『川と人とふるさとと うかわ』上宇川地区公民館、1989年
- 『日本歴史地名大系 26 京都府の地名』平凡社、1981年、ISBN 4582490263
- 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典 26京都府 上巻』角川書店、1982年
- 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典 26京都府 下巻』角川書店、1982年、ISBN 4040012623
- 京都府『丹後地区広域市町村圏振興整備構想研究報告書』京都府、1976年
- 坂口慶治「丹後地方における廃村の多発現象と立地環境との関係その1 : 地形的・地質的条件との関係」『京都教育大学環境教育研究年報』第6号、1998年3月、pp. 51-82、hdl:20.500.12176/4152
- 高橋達夫「丹後半島における挙家離村と機業」『人文地理』第22巻4号、1970年、pp. 454-475、doi:10.4200/jjhg1948.22.454