パークスはヤーキスがチャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道の次に買収を検討していたディストリクト鉄道の大株主でもあった。1901年3月までに、ヤーキス以下の投資家集団はディストリクト鉄道の経営権を握り、電化を提案した[8]。ヤーキスは1901年7月15日にヤーキス自身を社長とするメトロポリタン・ディストリクト電気鉄道(英語:Metropolitan District Electric Traction Company、MDETC)を設立し、発電所の建設と電気車両の製造を含む電化計画の実現に10万ポンド(2013年の940万ポンドに相当)[7]の資金を集めた[10]。パークスは1901年9月にディストリクト鉄道の会長に就任している[11]。
ブロンプトン・アンド・ピカデリーサーカス鉄道(英語:Brompton and Piccadilly Circus Railway、B&PCR)は1896年に設立された大深度地下鉄の会社で、1898年にディストリクト鉄道に買収されたものの、別会社として残されていた[12]。ブロンプトン・アンド・ピカデリーサーカス鉄道はサウス・ケンジントンからピカデリー・サーカスまでの大深度地下鉄の議会許可を得ており、この路線はサウス・ケンジントンでディストリクト鉄道が計画していた別の大深度地下鉄と接続する計画となっていたが、路線建設の資金を集められずにいた。1901年9月12日、ディストリクト鉄道の支配下にあったブロンプトン・アンド・ピカデリーサーカス鉄道の取締役会は同社をメトロポリタン・ディストリクト電気鉄道に売却した。ブロンプトン・アンド・ピカデリーサーカス鉄道は同じ月にストランド(英語版)からフィンズベリー・パークまでの路線建設許可をもっていたグレート・ノーザン・アンド・ストランド鉄道(英語:Great Northern and Strand Railway、GN&SR)の経営権を握っている[8]。その後、ブロンプトン・アンド・ピカデリーサーカス鉄道とグレート・ノーザン・アンド・ストランド鉄道の路線は接続され、ディストリクト鉄道の大深度路線の一部に組み込まれることでグレート・ノーザン・ピカデリー・アンド・ブロンプトン鉄道(英語:Great Northern, Piccadilly and Brompton Railway、GNP&BR)となった。
1902年3月にヤーキスはパディントンからエレファント・アンド・カッスルまでの路線の建設許可をもつベーカーストリート・アンド・ウォータールー鉄道(英語:Baker Street and Waterloo Railway、BS&WR)を36万ポンド(2013年の3410万ポンドに相当)[7][8]で買収した[8]。ヤーキスのロンドンでの最後の鉄道会社買収案件である。ヤーキスが買収した他の会社は計画、資金集めの段階だったが、ベーカーストリート・アンド・ウォータールー鉄道の建設工事は1898年に始まっており、1900年に親会社であるロンドン・アンド・グローブ金融がワイテイカー・ライト(英語版)社長の詐欺で経営破たんし、建設が中断した時点で工事はかなり進捗していた[13]。
ロンドン地下電気鉄道の経営上最大の課題は5年満期の利益共有型債権が1908年6月30日に満期を迎えることにあったが、手持ち資金は枯渇していた。スパイヤーはロンドン・カウンティ・カウンシル(英語版)(英語: London County Council、LCC)に500万ポンドの公的資金を注入するよう働きかけたが不調に終わり、ロンドン地下電気鉄道を破産に追い込むことを辞さない投資家に対してはスパイヤーの個人資産を切り崩して対処した。スパイヤーとギブは出資者がもつ社債を1933年から1948年にかけて返済する長期債務に切り替える合意を取り付け、危機を乗り切った[35]。
1909年、ロンドン地下電気鉄道はアメリカの投資家集団による反対を押し切り[38]、ベーカールー、ハムステッド、ピカデリーの3つのチューブ路線を正式にロンドン電気鉄道(英語:London Electric Railway Company 、LER)に統合する個別的法律案(英語版)[注釈 6]が国会に提出されたことを発表した[39]。この法案は1910年7月26日に1910年ロンドン電気鉄道統合法として国王裁可を得た[40]。このとき、ディストリクト鉄道はチューブ3路線とは別会社のまま残されている。
1910年にロンドン地下電気鉄道の社長に就任したスタンレーは、ロンドン・ゼネラル・オムニバス(英語版)(英語:London General Omnibus Company、LGOC)を1912年に、セントラル・ロンドン鉄道とシティ・アンド・サウス・ロンドン鉄道を1913年1月1日にロンドン地下電気鉄道の傘下に吸収した。ロンドン・ゼネラル・オムニバスはロンドンのバス運営を独占し、他のロンドンの地下鉄会社の配当率が数パーセントにとどまる中、18パーセントの配当を出していた。ロンドン・ゼネラル・オムニバスのあげる高い利益により、ロンドン地下電気鉄道傘下各社の赤字が補てんされた[41]。ロンドン地下電気鉄道はブリティシュ・エレクトリック・トラクション(英語版)と共同所有したロンドン近郊鉄道会社(英語:London and Suburban Traction Company、LSTC)を通じ、ロンドン・ユナイテッド路面鉄道(英語版)、メトロポリタン電気路面鉄道(英語版)及びサウス・メトロポリタン電気路面鉄道(英語版)の経営権を握った。
1920年代初期から、ピラーツ(英語:pirats、日本語では掠奪者などの意)と呼ばれる無統制の多数の零細バス会社との競合が激化してロンドン・ゼネラル・オムニバスの乗客が減少、バス事業の利益率低下によって持ち株会社であるロンドン地下電気鉄道の利益率も悪化したため[54]、スタンレーはロンドン周辺の公共交通を統制するようロビー活動を行うようになった。1923年以降、スタンレーと労働党のロンドン・カウンティ・カウンシル(英語版)議員、ハーバート・モリソン[注釈 7]の主導により、規制の程度と、公的機関が運営する公共交通機関の役割をめぐる議論を重ねながらロンドンの公共交通を統制する政策が進められていった。スタンレーはこの政策を通じてロンドン地下電気鉄道グループが競争から保護されるとともに、ロンドン・カウンティ・カウンシルが運営する路面鉄道(英語版)を支配することをもくろむ一方で、モリソンは公的機関がロンドンの公共交通すべてを運営することを考えていた[55]。7年に及ぶ議論の末、1930年末にはロンドン地下電気鉄道、メトロポリタン鉄道及びすべてのロンドン地区のバスと路面鉄道の運営を引き継ぐロンドン旅客運輸公社(英語:London Passenger Transport Board、LPTB)の設立が発表された[56]。1910年にロンドン地下電気鉄道傘下の3つの地下鉄会社の統合を実現した際にもスタンレー自身が投資家を説得していたが、公社設立にあたってもスタンレーの卓越した説得能力によりロンドン地下電気鉄道の株主の合意を得ている[57]。
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Horne, Mike (2001). The Bakerloo Line. Capital Transport. ISBN1-85414-248-8
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Rose, Douglas (1999) [1980]. The London Underground, A Diagrammatic History. Douglas Rose/Capital Transport. ISBN1-85414-219-4
Wolmar, Christian (2005) [2004]. The Subterranean Railway: How the London Underground Was Built and How It Changed the City Forever. Atlantic Books. ISBN1-84354-023-1