ガウショ (Gaúcho) ことルイス・カルロス・トッフォリ(Luís Carlos Tóffoli, 1964年3月7日 - 2016年3月17日)は、ブラジル・リオグランデ・ド・スル州ポルトアレグレ出身の元サッカー選手。現役時代のポジションはフォワード。
来歴
選手時代
フラメンゴの育成組織出身で[1]、トップチームでは1982年6月6日に行われたデスポルチーヴァ-ES戦でデビュー[2]。1985年にキンゼ・デ・ピラカシーバに移籍すると、公式戦と親善試合を含め46試合で15得点をあげた[3]。
サント・アンドレを経て[4]、1986年に日本サッカーリーグ (JSL) 1部の読売クラブに移籍[4]。武田修宏とツートップを組み空中戦とボールキープに強さを発揮すると[5]、JSL1部と天皇杯の二冠獲得に貢献した[5]。
読売退団後は古巣のサント・アンドレ、グレミオを経て[2]、1988年にパルメイラスに移籍[5]。この年のパルメイラスはセンターフォワードを固定できずにいたが、ガウショは直後の練習試合で結果を残しレギュラーに定着した[5]。一方、1989年になると同じポジションのミランジーニャが加入したため移籍の道を模索するようになった[1]。
1990年、フラメンゴに復帰し[6]、同年2月11日に行われたカボフリエンセ戦で初得点を記録[1][2]。フラメンゴではレナト・ガウショ、レオナルド、ジーニョ、パウロ・ヌネス、ジャウミーニャらとチームメイトとなり[2]、在籍した3年間で3つのタイトル(1990年のコパ・ド・ブラジル、1991年のリオデジャネイロ州選手権、1992年のブラジル全国選手権)獲得に貢献[2][6]。個人としても1990年と1991年にフラメンゴの最多得点者となり、1991年のコパ・リベルタドーレスでは8得点をあげて得点王となった[2]。一連の活躍からフラメンゴのアイドル的な存在とも称された[7]。
フラメンゴでの成功を受けて国外へ活躍の場を求めるようになり、1991年6月にはアルゼンチンのボカ・ジュニアーズへ短期間のレンタル移籍[8]。1993年夏にはイタリアのUSレッチェへ移籍したが9月18日に行われたUSフォッジャ戦でPKを失敗するなど結果を残せず、リーグ戦5試合、カップ戦1試合出場のみに終わった[9]。その後はブラジルに戻り、アトレチコ・ミネイロ、ポンチ・プレッタ、フルミネンセを渡り歩いた後、1996年にアナポリスで現役を引退した[10]。
引退後
引退後はサッカースクールを開設し少年層の指導にあたっていたが、2001年にクイアバECを設立し初代会長となった[10][11]。クラブはマットグロッソ州選手権を2度(2003年、2004年)制した[11]。2006年限りでクラブを売却し、その後はミストECやルヴェルデンセECで監督を務めた[10]。
2008年頃から前立腺癌を患い、長い闘病生活の末に2016年3月17日に死去した[10][12]。
エピソード
個人成績
日本国内成績
国内大会個人成績 |
年度 | クラブ | 背番号 | リーグ |
リーグ戦 |
リーグ杯 | オープン杯 |
期間通算 |
出場 | 得点 |
出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
出場 | 得点 |
日本 |
リーグ戦 |
JSL杯 |
天皇杯 |
期間通算
|
1986-87 |
読売 |
23 |
JSL1部 |
16 |
9 |
0 |
0 |
4 |
3 |
20 |
12
|
通算 |
日本 |
JSL1部
|
16 |
9 |
0 |
0 |
4 |
3 |
20 |
12
|
総通算
|
16 |
9 |
0 |
0 |
4 |
3 |
20 |
12
|
選抜歴
獲得タイトル
クラブ
個人
- リオデジャネイロ州選手権得点王 1回 (1991年) 17得点
- コパ・リベルタドーレス得点王 1回 (1991年) 8得点
脚注