ラオディケ4世(ギリシア語: Λαοδίκη Δ΄, 紀元前3世紀後半 - 紀元前2世紀前半)は、ギリシャの王女、主司祭であり、セレウコス朝の王妃。アンティオコス3世は紀元前193年にメディア王国で彼女の母主司祭ラオディケ3世の後任として彼女を任命した。彼女は後に、彼女の全血兄弟であるセレウコス朝の3人の王と結婚した。
生涯
家族と初期の人生
ラオディケ4世はマケドニア人とペルシア人の子孫だった。彼女は、セレウコス朝の君主であるアンティオコス3世とラオディケ3世の間に生まれた子供の一人だった[1]。彼女の父方の祖父母は、以前のセレウコス朝君主セレウコス2世とラオディケ2世(英語版)で、母方の祖父母はポントゥスのミトラダテス2世(英語版)と妻のラオディケ(英語版)だった。
ラオディケ4世の両親は、父方の祖父と母親の祖母が共にアンティオコス2世とラオディケ1世(英語版)の間の子供で、兄妹だったので、いとこ同士であった[2]。彼女はセレウコス朝で生まれ育った。ラオディケ4世はデロスで彼女に捧げられた敬意を表する碑文で記念された[3]。
先祖
王妃としての最初の統治
紀元前196年、彼女の兄である皇太子アンティオコスは後継者として父親によって任命された[5]。その年、ラオディケ4世は彼と結婚した。ラオディケ4世とアンティオコスの結婚は、セレウコス朝で起きる最初の兄妹婚だった[3]。彼らの兄妹結合によりラオディケ4世はアンティオコスとの間にニサ(英語版)という娘を産んだ[6]。
アンティオコス3世は紀元前193年にラオディケ4世をメディア王国のラオディケ3世に捧げられた州神殿の主司祭として任命した[6][3]。その年の後半に、彼女の兄であり夫が死亡した。家族、特にアンティオコス3世は、彼の死を悲しんだ[3]。
2度目の結婚
アンティオコス3世は彼女が再び結婚するように手配した。今度は、彼女のもう一人の兄セレウコス4世だった[6]。彼らの結合により3人の子供が産まれた。2人の息子アンティオコスとデメトリオス1世ソテルに、娘のラオディケ5世だった[6]。紀元前187年、アンティオコス3世は死亡し、セレウコス4世は父親の後継となった。彼はセレウスコス朝の王となり、ラオディセ4世はセレウコス朝の女王になった。セレウコス4世が死亡した時、彼らはセレウコス朝の皇室夫婦として紀元前187年から175年まで支配していた[6]。ラオディケ4世が女王としてどの様に統治したのか、同時代の人々が彼女をどのように見ていたかについて、現存している記録はない。紀元前175年頃、ラオディケの最初の息子は王になった[7]。ライディケ4世の肖像画とセレウコス4世、最初の息子アンティオコスを示す紀元前175年の現存しているコインがあり、最初のコインに描かれたセレウコス王と女王となっている[7]。
3度目の結婚
セレウコス4世が死亡した後、ラオディケ4世は、セレウコス4世の王位を継承した彼女の弟アンティオコス4世エピファネスと結婚した。アンティオコス4世は甥アンティオコスと共謀し、彼の養子を息子として採用しようとしたが、彼は紀元前170年に暗殺された[7]。ラオディケ4世はアンティオコス4世エピファネスとの間に2人の子供を産んだ。息子アンティオコス5世エウパトルと娘ラオディケ6世だった[6]。ラオディケらの最年少の兄弟と長男が共謀したとき、彼女の次男のデメトリオス1世ソテルはローマに政治的人質として送られた。アンティオコス4世が死んだ時、ラオディケ4世とアンティオコス4世エピファネスの最初の息子、アンティオコス5世エウパトルはセレウコス王として父親の後継者となった[6]。
脚注
参考文献
外部リンク