ラオス人民革命党(ラオスじんみんかくめいとう、ラーオ語: ພັກປະຊາຊົນປະຕິວັດລາວ)は、ラオスの政党。ラオスの憲法第3条では「ラオス人民革命党を主軸とする政治制度」と規定されており[3]、同国唯一の政党として国家を主導する。社会主義、マルクス・レーニン主義、プロレタリア独裁を党の綱領として掲げる一方、社会主義の枠内での経済の自由・開放化をも綱領に掲げている。
歴史
インドシナ共産党ラオス地方委員会の党員であったカイソーン・ポムウィハーンらによってラオス人民党が結成され、1955年3月22日に結党大会が開催された。翌1956年1月、大衆組織ネーオ・ラーオ・ハックサート(ラオス愛国戦線)を組織して左派勢力を糾合し、ラオス内戦を戦う。
内戦末期の1972年2月3日から2月6日まで開催された第2回党大会において、党名を現在のラオス人民革命党に改称。ラオス人民革命党が主導するネーオ・ラーオ・ハックサートはラオス王国を打倒し、1975年12月2日、ラオス人民民主共和国を建国。ラオス人民革命党は同国唯一の政党として、ラオスを支配した。建国当初、ラオス人民革命党は急進的にラオスの社会主義化を進めていったが、その結果、経済は破綻してしまった。そのため、1986年11月13日から11月15日にかけて開催された第4回党大会において、カイソーン・ポムウィハーン書記長は社会主義の枠内での経済の自由・開放化を認める「チンタナカーン・マイ(新思考)」を提唱し、党の指導思想とした。
1989年に東ヨーロッパで起きた民主化運動、そして1991年のソビエト連邦の崩壊でラオス人民革命党も民主化の岐路に立たされたが、現在もマルクス・レーニン主義を堅持し、一党独裁制・民主集中制を敷いている。
1989年 第4期党中央委員会第8総会では以下の「6つの原則」が定められた[4]。
- マルクス・レーニン主義を堅持し、新しい時代における我が国の革命の特徴を把握する
- マルクス・レーニン主義は我が党の基本原則であり、我が人民の全ての義務を指示する
- 党の指導は我が人民の革命任務の勝利にとって決定的な条件である
- 民主集中原則に則った民主主義の向上と拡大、党指導下で人民を根幹とする
- 人民民主主義独裁の勢力と権威を拡大する
- 愛国主義、国際労働主義、国際社会主義の連携、国力と時勢の連携を行う
その後、マルクス・レーニン主義と並び「カイソーン・ポムウィハーン思想」が提示された。
党勢の推移
党幹部
2006年3月の第8回党大会で発足した第8期指導部。
2011年3月の第9回党大会で発足した第9期指導部[5]。
- 中央委員会書記長:チュンマリー・サイニャソーン
- 中央委員会政治局
- 政治局員:チュンマリー・サイニャソーン、トーンシン・タムマヴォン、ブンニャン・ウォーラチット、パーニー・ヤートートゥー(女性)、アーサーン・ラーオリー、トーンルン・シースリット、ドゥアンチャイ・ピチット、ソムサヴァート・レンサヴァット、ブントーン・チットマニー、ブンポーン・ブッタナウォン、パンカム・ヴィパワン
- 中央委員会書記局
2016年1月の第10回党大会で発足した第10期指導部[6][7]。
- 中央委員会書記長:ブンニャン・ウォーラチット
- 中央委員会政治局
- 中央委員会書記局
- 書記:ブンニャン・ウォーラチット、ブントーン・チットマニー、パンカム・ウィパーワン、チャンシー・ポーシカム、Khamphanh Phommathat博士、セーンヌアン・サイニャラート中将、Kikeo Khaykhamphithoune博士教授、Somkeo Silavong少将、Vilay Lakhamfong少将
脚注
注釈
出典
参考文献
- 山田紀彦「ラオス人民革命党第7回大会 ― 残された課題 ― 」(石田暁恵編『2001年党大会後のヴィエトナム・ラオス ― 新たな課題への挑戦』アジア経済研究所、2002年3月)
- 山田紀彦「今後の政治改革路線と新指導部」(山田紀彦編『ラオス人民革命党第9回大会と今後の発展戦略』アジア経済研究所、2012年)
- カム・ヴォーラペット『現代ラオスの政治と経済』(藤村和広・石川真唯子訳、めこん、2010年)
関連項目