モーリッツ・フォン・アンハルト=デッサウ

モーリッツ・フォン・アンハルト=デッサウ
Moritz von Anhalt-Dessau
アンハルト=デッサウ
モーリッツの肖像画、1760年以前の作品。

称号 アンハルト=デッサウ侯子
出生 1712年10月31日
デッサウ
死去 (1760-04-11) 1760年4月11日(47歳没)
デッサウ
父親 アンハルト=デッサウ侯レオポルト1世
母親 アンナ・ルイーゼ・フェーゼ英語版
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モーリッツ・フォン・アンハルト=デッサウドイツ語: Moritz von Anhalt-Dessau1712年10月31日 - 1760年4月11日)は、アンハルト=デッサウ侯レオポルト1世の五男。軍人であり、プロイセン王国元帥を務めた。

生涯

1712年、アンハルト=デッサウ侯レオポルト1世(老デッサウ)とアンナ・ルイーゼ・フェーゼ英語版の息子として生まれた。1725年にプロイセン陸軍に入隊、最初に戦闘に参加したのはポーランド継承戦争に志願兵として参戦したときだった。プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の晩年には指揮を執るようになる。フリードリヒ2世シュレージエン戦争中、特に1745年のホーエンフリートベルクの戦いなどで頭角を現した[1]

老デッサウの最後の戦いであるケッセルスドルフの戦いにおいて、モーリッツ率いる一翼がオーストリアの戦列を突破してプロイセン軍の勝利に導いた。シュレージエン戦争の終戦後、七年戦争が勃発する前、モーリッツはフリードリヒ2世により、当時廃墟となっていたポンメルン州英語版オーデル川沿岸への植民を命じられた。1756年に戦争が再び勃発すると、モーリッツはピルナ包囲戦に参戦、ザクセン軍をピルナに封じ込めるプロイセン軍のうち1個縦隊を率いた。オーストリアの救援軍を派遣する試みが失敗すると、モーリッツはフリードリヒ・アウグスト・フォン・ルトフスキー英語版の降伏を受けた[1]

翌年のコリンの戦いでは左翼を率いたが、フリードリヒ2世との連絡の不備により早まって攻撃して大敗、フリードリヒ2世の不興を買った。1757年12月5日のロイテンの戦いで勝利すると、フリードリヒ2世はその日の終わりにモーリッツところまで行き、「おめでとう、元帥」と言った。ツォルンドルフの戦いでも勇敢にたたかったが、ホッホキルヒの戦いでは負傷してオーストリア軍の捕虜になった。モーリッツはこの負傷が元で釈放された直後に死去した[1]

脚注

  1. ^ a b c  この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Anhalt-Dessau, Leopold I.". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 2 (11th ed.). Cambridge University Press.

参考文献