ジャン=バティスト・ヴァン・ロー による肖像画、1745年作。
初代ウォルタートンのウォルポール男爵 ホレイショ・ウォルポール (英語 : Horatio Walpole, 1st Baron Walpole of Wolterton PC PC (Ire) 、1678年 12月8日 – 1757年 2月5日 )はグレートブリテン王国 の外交官、政治家。イギリス首相ロバート・ウォルポール の弟にあたる。
生涯
ロバート・ウォルポール (英語版 ) 大佐(1650年 – 1700年)とメアリー・バーウェル(Mary Burwell 、サー・ジェフリー・バーウェル)の息子、後にイギリス首相となるロバート・ウォルポール の弟として、1678年12月8日にハウトン (英語版 ) で生まれた[ 1] [ 2] 。1693年から1698年までイートン・カレッジ で教育を受けた後[ 2] 、1698年にケンブリッジ大学 キングス・カレッジ に入学、1702年にフェロー (研究員)に選出され、1702年/1703年にB.A. の学位を、1713年にM.A. の学位を修得した[ 3] 。また、1700年10月2日にリンカーン法曹院 に入学した[ 3] 。
1706年にスペイン駐在公使ジェームズ・スタンホープ の秘書になり、翌年に財務大臣 ヘンリー・ボイル の秘書に転じ(1708年2月に財務省事務次官 に転じる)、1709年5月にはデン・ハーグ で行われている講和会議に派遣されたイギリス特命全権公使の秘書に任命された[ 2] 。1708年よりホレイショを庶民院 議員に当選させる動きがあったが、最終的に当選するのは1710年1月のロストウィシエル選挙区 (英語版 ) 補欠選挙だった[ 2] 。1710年4月に国王親衛隊 (英語版 ) の下士官に任命されたが、同年の総選挙 ではトーリー党 が大勝したためホイッグ党 員であるホレイショは落選、さらにボイルが罷免されたため事務次官の官職も失った[ 2] 。1712年には国王親衛隊の官職からも解任された[ 2] 。同年に庶民院議員である叔父ホレイショ (英語版 ) が官職を与えられ、キャッスル・ライジング選挙区 (英語版 ) の補選を行う必要が生じたときにもホレイショに立候補を勧める動きがあったが、このときは立候補せず叔父が再選され、1713年イギリス総選挙 にようやく出馬してキャッスル・ライジング選挙区で当選した[ 2] 。1714年の会期中は兄ロバートとともに庶民院で活躍、兄がホイッグ党の指導者の1人だったのに対しホレイショ自身は外交を専門とした[ 2] 。
1714年8月にジョージ1世 が即位すると、北部担当国務大臣 タウンゼンド子爵 の下で事務次官を務めたが[ 4] 、翌年に兄ロバート(当時は財務大臣)の副官(大蔵担当下級政務次官 (英語版 ) )に転じた[ 1] 。同1715年の総選挙 でベア・アルストン選挙区 (英語版 ) に鞍替えして再選、同年にデン・ハーグ駐在公使を務めたが(1716年10月退任)、1717年にロバートが下野するとホレイショもそれに従い[ 1] 、一時は庶民院から離れたが、1718年12月にイースト・ロウ選挙区 (英語版 ) で当選して庶民院議員に復帰、1719年には貴族法案に反対する演説をした[ 4] 。1720年にアイルランド担当大臣 (英語版 ) になり、同年にアイルランド枢密院 (英語版 ) の枢密顧問官に任命された[ 4] 。1721年には兄ロバートが財務大臣に返り咲き、ホレイショも政務次官に復帰した[ 4] 。その後、1722年イギリス総選挙 でグレート・ヤーマス選挙区 (英語版 ) に転じて再選された[ 2] 。
1723年、ロバートとタウンゼンド子爵によってパリ に派遣され、以降昇格を繰り返して1727年には特命全権大使になった[ 4] 。パリではアンドレ=エルキュール・ド・フルーリー 枢機卿に取り入って英仏の友好を計らい(ジョージ1世が1727年に死去したときにフルーリー枢機卿から英仏友好を再確認する書簡を得て、新王ジョージ2世 に外交政策を維持させた[ 4] )、1728年のソワソン会議 でイギリス代表を務めて1729年11月のセビリア条約 にこぎつけた[ 1] 。
1730年にタウンゼンド子爵が辞任すると、ホレイショは帰国して財務大臣付き秘書も辞し、代わりに王室会計長官 (英語版 ) になり、同年11月12日にグレートブリテン枢密院 の枢密顧問官に任命された[ 4] 。ホレイショが議会で兄ロバートを支えることを期待しての王室会計長官任命だったが、彼は議会で地位を築けず[ 4] 、1734年にはネーデルラント連邦共和国駐在イギリス大使 (英語版 ) として転出した[ 1] (王室会計長官には留任[ 4] )。同年に総選挙 が行われ、ホレイショはノリッジ選挙区 (英語版 ) に鞍替えした[ 4] 。その後、外交に疲れて1739年に帰国、以降外交使節の官職に就くことはなくなった[ 4] 。
1741年に王室会計長官と引き換えに閑職の財務省出納官 (英語版 ) に就任した[ 4] 。1742年に兄ロバートが首相を辞任すると、庶民院で兄を弁護し、また兄を弁護するパンフレットを出版した[ 1] 。以降も議会での発言はあるもののまばらになり、『英国下院史 (英語版 ) 』に至っては1754年のホレイショを「地上の死人」(the dead above ground )の1人とした[ 5] 。この時期のホレイショの主だった活動は叙爵を求めることであり、首相ニューカッスル公爵 はそれに応じた[ 5] 。そして、ホレイショは1756年6月4日、グレートブリテン貴族 であるウォルタートンのウォルポール男爵 に叙された[ 5] 。
1757年2月5日に死去[ 3] 、長男ホレイショ が爵位を継承した[ 1] 。
人物
ホレイショと同時代の人物である第2代ハーヴィー男爵 はホレイショを「全ての能力において兄にとっては無用である。辞書としての能力以外は」と酷評した[ 4] 。
家族
1720年7月21日、メアリー・マグダレーン・ロンバード(Mary Magdalen Lombard 、ピーター・ロンバードの娘)と結婚、4男5女を儲けた[ 2] 。
ホレイショ (1723年 – 1809年) - 第2代ウォルポール男爵、後に初代オーフォード伯爵に叙爵
メアリー(1726年2月25日 – ?) - 海軍軍人モーリス・サックリング (英語版 ) と結婚
トマス (英語版 ) (1727年 – 1803年) - 銀行家、庶民院議員。子供あり
リチャード (英語版 ) (1728年 – 1798年) - 庶民院議員。子供あり
スーザン(1730年5月3日 – 1732年4月29日)
ヘンリエッタ・ルイーサ(1731年11月28日 – 1824年6月)
アン(1733年7月12日 – 1797年11月25日)
キャロライン(1734年11月22日 – 1737年1月11日)
ロバート (1736年 – 1810年) - 外交官
脚注
^ a b c d e f g Chisholm, Hugh , ed. (1911). "Walpole of Wolterton, Horatio, 1st Baron" . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 28 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 290.
^ a b c d e f g h i j Hayton, D. W. (2002). "WALPOLE, Horatio II (1678-1757), of Houghton, Norf." . In Hayton, David; Cruickshanks, Eveline ; Handley, Stuart (eds.). The House of Commons 1690-1715 (英語). The History of Parliament Trust. 2019年7月20日閲覧 。
^ a b c "Horace (Horatio) WALPOLE (WLPL698HH)" . A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
^ a b c d e f g h i j k l m Sedgwick, Romney R. (1970). "WALPOLE, Horatio (1678-1757), of Wolterton, Norf." . In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2019年7月20日閲覧 。
^ a b c Drummond, Mary M. (1964). "WALPOLE, Horatio (1678-1757), of Wolterton, Norf." . In Namier, Sir Lewis ; Brooke, John (eds.). The House of Commons 1754-1790 (英語). The History of Parliament Trust. 2019年7月20日閲覧 。
関連図書
外部リンク