第2代シャンドス公爵ヘンリー・ブリッジス(英語: Henry Brydges, 2nd Duke of Chandos、1708年1月17日 - 1771年11月28日)は、イギリスの貴族。
シャンドス公爵家嫡男だった頃の1727年から1744年までカーナーヴォン侯爵 (Marquess of Carnarvon) の儀礼称号で称された。
経歴
1708年1月17日、初代シャンドス公爵ジェイムズ・ブリッジスとその妻メアリー(旧姓レイク)の間の次男として生まれる。兄にジョンがあったが、この兄は1727年に父に先立って死去したため、それ以降は彼が嫡男だった[1]。
ウェストミンスター・スクールを経て、ケンブリッジ大学セント・ジョン・カレッジ(英語版)へ進学[2]。
1727年から1734年にかけてヘレフォード選挙区(英語版)、1734年から1741年にかけてステニング選挙区(英語版)、1741年から1744年にかけてビショップズ・キャッスル選挙区(英語版)から選出されてホイッグ党所属の庶民院議員を務める[3][4]。
1728年から1735年まで皇太子フレデリック・ルイスの寝室侍従長を務める。ついで1735年から皇太子の主馬頭(Master of the Horse)を務め、さらに1742年から1751年にかけては皇太子の宮内官(英語版)を務めた[4]。
1738年から1739年にかけてはフリーメイソンのイングランド・首位グランドロッジ(英語版)のグランドマスターを務めた[4]。
1744年8月9日に父が死去し、第2代シャンドス公爵位を継承し、貴族院議員に転じた[3][4]
1771年11月28日にハンプシャーのブリッジスデン(英語版)で死去[2]。
栄典
爵位・準男爵位
- 1744年8月9日、第2代シャンドス公爵 (Duke of Chandos)
- (1719年創グレートブリテン貴族爵位)
- 1744年8月9日、第2代カーナーヴォン侯爵 (Marquess of Carnarvon)
- (1719年創設グレートブリテン貴族爵位)
- 1744年8月9日、第2代カーナーヴォン伯爵 (Earl of Carnarvon)
- (1714年創設グレートブリテン貴族爵位)
- 1744年8月9日、ヘレフォード州における第2代ウィルトン子爵 (Viscount Wilton in the county of Hereford)
- (1714年創設グレートブリテン貴族爵位)
- 1744年8月9日、グロスター州におけるスードリーの第10代シャンドス男爵 (Baron Chandos, of Sudeley in the county of Gloucester)
- (1554年創設イングランド貴族爵位)
- 1744年8月9日、ヘレフォード州におけるウィルトンの第5代ブリッジス準男爵 (6th Baronet Brydges, of Wilton in the county of Hereford)
- (1627年創設イングランド準男爵位)[3]
家族
1728年に第4代エルギン伯爵チャールズ・ブルースの娘メアリーと結婚し、彼女との間に第3代シャンドス公爵位を継承するジェイムズ・ブリッジスはじめ1男1女を儲けた。メアリーと1738年に死別し、1744年にアン・ジェフリーズと再婚したが、子供のないまま、1759年に死別した。1767年に初代準男爵ジョン・メージャー(英語版)の娘エリザベスと三度目の結婚をしたが、彼女との間にも子供はできなかった[3][4]。
出典