第3代エイルズフォード伯爵 ヘニッジ・フィンチ (英語 : Heneage Finch, 3rd Earl of Aylesford 、1715年 11月6日 – 1777年 5月9日 )は、グレートブリテン王国 の貴族、政治家。トーリー党 に属し、庶民院 議員(1739年 – 1747年、1754年 – 1757年)を務めた[ 1] 。爵位継承までガーンジー卿 の儀礼称号 を使用した[ 2] 。
生涯
第2代エイルズフォード伯爵ヘニッジ・フィンチ と妻メアリー(Mary 、1740年5月28日没、旧姓フィッシャー(Fisher )、第3代準男爵サー・クレメント・フィッシャー の娘)の息子として、1715年11月6日に生まれ、同日に洗礼を受けた[ 1] 。1728年から1732年までウェストミンスター・スクール で教育を受けた後[ 2] 、1732年7月31日にオックスフォード大学 ユニヴァーシティ・カレッジ に入学、1735年12月13日にM.A. の学位を修得した[ 1] 。
1739年12月、レスターシャー選挙区 (英語版 ) の補欠選挙にトーリー党 候補として出馬、無投票で庶民院 議員に当選した[ 3] 。庶民院では野党の一員として投票したが、1741年2月の首相ロバート・ウォルポール 罷免動議に際しては議場から退出した[ 2] 。
1741年イギリス総選挙 では叔父ジョン (英語版 ) が1740年まで議員を務めたメイドストーン選挙区 (英語版 ) から出馬した[ 4] 。この選挙ではエイルズフォード伯爵家がメイドストーンの地方自治体(corporation )と手を組み、伯爵家の支持する候補2名を当選させたが(ガーンジー卿も561票でトップ当選)、これにより訴訟が起こり、地方自治体が解体されることになった[ 4] 。結果としては1747年に行われた次の総選挙 でガーンジー卿が得票数3位(284票)になり落選した[ 4] 。この間の議会活動では引き続き野党の立場にあった一方、王太子フレデリック・ルイス に接近した[ 2] 。
1754年イギリス総選挙 では再びメイドストーン選挙区で出馬、今度は得票数2位(572票)で当選した[ 5] 。2度目の議員期ではジョージ・グレンヴィル 派の一員だった[ 6] 。1757年6月29日に父が死去すると、エイルズフォード伯爵 位を継承した[ 1] 。貴族院 でも引き続きグレンヴィル派として行動し、印紙法 廃止に反対、ジョン・ウィルクス 当選問題で政府と対立した[ 1] 。
1761年4月14日、オックスフォード大学より民法学博士 (英語版 ) の学位を授与された[ 1] 。
1777年5月9日にグローヴナー・スクエア (英語版 ) で死去、パッキントン (英語版 ) で埋葬された[ 1] 。同名の息子ヘニッジ が爵位を継承した[ 1] 。
家族
1750年10月6日、シャーロット・シーモア(Charlotte Seymour 、1730年9月21日 – 1805年2月15日、第6代サマセット公爵チャールズ・シーモア の娘)と結婚[ 1] 、8男4女をもうけた[ 7] 。
ヘニッジ (1751年7月4日 – 1812年10月21日) - 第4代エイルズフォード伯爵[ 1]
チャールズ (英語版 ) (1752年6月4日 – 1819年12月17日) - 庶民院議員。1778年12月28日、ジェーン・ウィン(Jane Wynne 、1811年11月没、ワトキン・ウィンの娘)と結婚、子供あり[ 7]
ウィリアム・クレメント (1753年5月27日 – 1794年9月30日) - 海軍軍人、庶民院議員。1789年8月3日、メアリー・ブラウンカー(Mary Brouncker 、1813年10月6日没、ヘンリー・ブラウンカーの娘)と結婚、子供あり
シャーロット(1754年5月13日[ 8] – 1808年7月7日) - 1777年8月14日、第12代サフォーク伯爵ヘンリー・ハワード と結婚、子供あり[ 7]
ジョン(1755年5月22日 – 1777年6月29日) - アメリカ独立戦争 で戦死、子供なし[ 7]
エドワード (英語版 ) (1756年4月26日 – 1843年10月27日) - 陸軍軍人、庶民院議員、生涯未婚[ 7]
ダニエル(1757年4月3日 – 1840年10月) - 聖職者[ 7]
シーモア(1758年6月11日 – 1794年2月2日[ 7] )
ヘンリー・アリントン(Henry Allington 、1760年2月26日 – 1780年11月19日[ 7] )
フランシス(1761年2月9日 – 1838年11月21日) - 1782年9月29日、第3代ダートマス伯爵ジョージ・レッグ と結婚、子供あり[ 7] [ 8]
マリア・エリザベス(1766年10月7日 – 1848年10月20日) - 生涯未婚[ 7] [ 8]
ヘンリエッタ・コンスタンシア(1769年6月3日 – 1814年6月6日) - 生涯未婚[ 8]
出典
^ a b c d e f g h i j Cokayne, George Edward ; Gibbs, Vicary , eds. (1910). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Ab-Adam to Basing) (英語). Vol. 1 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 365–366.
^ a b c d Newman, A. N. (1970). "FINCH, Heneage, Lord Guernsey (1715-77)." . In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2023年2月8日閲覧 。
^ Cruickshanks, Eveline (1970). "Leicestershire" . In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2023年2月8日閲覧 。
^ a b c Newman, A. N. (1970). "Maidstone" . In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2023年2月8日閲覧 。
^ Brooke, John (1964). "Maidstone" . In Namier, Sir Lewis ; Brooke, John (eds.). The House of Commons 1754-1790 (英語). The History of Parliament Trust. 2023年2月8日閲覧 。
^ Newman, A. N. (1964). "FINCH, Heneage, Lord Guernsey (1715-77)." . In Namier, Sir Lewis ; Brooke, John (eds.). The House of Commons 1754-1790 (英語). The History of Parliament Trust. 2023年2月8日閲覧 。
^ a b c d e f g h i j Thorpe, A. Winton, ed. (1921). A Genealogical and Heraldic History of the Peerage and Baronetage, The Privy Council, Knightage and Companionage (英語) (80th ed.). London: The Burke Publishing Company. p. 169.
^ a b c d Lodge, Edmund (1848). The Peerage of the British Empire as at Present Existing (英語) (17th ed.). London: Saunders and Otley. p. 36.