1826年イギリス総選挙でベリー・セント・エドマンズから出馬して、無投票で当選した[4]。1827年2月にリヴァプール伯爵が卒中を起こして倒れると、いち早くジョージ・カニングへの支持を表明したが、ジャーミン伯爵(ハーヴィーが1826年6月より使用した儀礼称号[2])の議会活動は少なく、1826年から1830年までの間断続的にフランスで過ごした[3]。1827年5月のケンブリッジ大学選挙区補欠選挙の後、現職議員の第3代パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプルの財務大臣就任が噂されたため[注釈 1]、ジャーミン伯爵は次の選挙での立候補を表明したが、首相カニングがパーマストン子爵への打診を取り下げたため、出直し選挙は実現しなかった[3]。議会では親カトリック派としてカトリック解放に賛成(1827年3月、1828年5月、1829年3月)、審査法廃止に賛成(1828年2月)したほか、概ねウェリントン公爵内閣(1828年 – 1830年)を支持、内閣が主張した穀物法改正も支持した[3]。1828年7月3日の初演説は1800年合同法にあたりアイルランド・グレートブリテン両政府の間で行われた通信の公開議案を受けて行われ、ジャーミン伯爵は「カトリックが合同に同意したのは自身の将来の処遇に向けた期待があったため」(the Catholics had acquiesced in it because of expectations generated concerning their future treatment)と主張した[3]。
1830年イギリス総選挙では地主層から穀物法に関する意見を問われ、保護主義に前向きな態度を示したが、保護主義の公約には拒否した[4]。ジャーミン伯爵はこの総選挙においても無投票で再選[4]、直後に父とともに第1回選挙法改正への反対を表明、採決でも同様の立場をとった[3]。1831年イギリス総選挙の選挙戦では28票でトップ当選[4]、以降も選挙法改正に反対し続けたが、1832年イギリス総選挙では自身を「選挙法改正に反対する、自由主義改革派」(liberal reformer opposed to parliamentary reform)であると主張した[3]。この戦略によりホイッグ党の票が割れ[3]、ジャーミン伯爵はホイッグ党候補2名に対し272票(得票数2位)で再選した[6]。その後、1835年(317票、1位)、1837年(277票、2位)、1841年(341票、1位)、1847年(390票、1位)、1852年(493票、1位)、1857年(344票、1位)の総選挙で再選した[6]。
^ abcdefgEscott, Margaret (2009). "Bury St. Edmunds". In Fisher, David (ed.). The House of Commons 1820-1832 (英語). The History of Parliament Trust. 2022年2月20日閲覧。
^ abcdefgFisher, David R. (2009). "Cambridge University". In Fisher, David (ed.). The House of Commons 1820-1832 (英語). The History of Parliament Trust. 2022年2月20日閲覧。
^ abcdefgTownend, Peter, ed. (1963). Burke's Genealogical and Heraldic History of the Peerage, Baronetage and Knightage (英語). Vol. 1 (103rd ed.). London: Burke's Peerage Limited. p. 326.