フリードリヒ・ルートヴィヒ・ツー・メクレンブルク(ドイツ語: Friedrich Ludwig zu Mecklenburg, 1778年6月13日 - 1819年11月29日)は、メクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ1世の長子。
父より先に亡くなったため、大公位を継承できなかった。1815年、メクレンブルク=シュヴェリーンへ攻め込んだナポレオン軍に抵抗し、将軍として指揮を執った。
生涯
メクレンブルク公子であったフリードリヒ・フランツと、ザクセン=ゴータ=アルテンブルク公女ルイーゼの第一子として、ルートヴィヒスルスト(英語版)で生まれた。1785年、父の公位継承によって継承予定者となった。ウィーン会議でロシア皇帝アレクサンドル1世の同盟者となったために、メクレンブルク=シュヴェリーンは大公国に昇格した。
わずか41歳で亡くなり、政治に関わることが少なかったために、フリードリヒ・ルートヴィヒの肖像画は非常に少なく、長い間忘れられていた。フリードリヒ・ルートヴィヒは1819年に亡くなり、かつてロシア正教会の礼拝堂であったエレナ・パヴロヴナ霊廟(ルートヴィヒスルスト)に埋葬されている。
家族
1799年10月、サンクトペテルブルクでロシア大公女エレナ・パヴロヴナと結婚した。1803年に急逝したエレナとの間には2子が生まれた。
1808年、愛妾ルイーゼ・アーレンスとの間に庶子フリードリヒ・カール・プリュショウをもうけた。
1810年7月、ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公女カロリーネ・ルイーゼと結婚した。カロリーネ・ルイーゼとの間に3子をもうけた。
1816年にカロリーネ・ルイーゼと死別後、1818年4月にアウグステ・フォン・ヘッセン=ホンブルクと結婚した。子供はいなかった。
外部リンク
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